Interviews

沖野修也が語るクラブに於ける日本のジャズの過去から現在

日本に於けるアシッド・ジャズ/クラブ・ジャズ黎明期より、ワールドワイドな活動を行ってきたプロデューサー/DJの沖野修也。その沖野修也が2015年に始動させたジャズ・ユニット、Kyoto Jazz Sextetの新作をリリース。何と今作では、レジェンダリー・ドラマー、森山威男を全面フィーチャー。自身のキャリア、そしてクラブ・シーンに於ける「日本のジャズ」について語っていただいた。

写真:柳樂光隆、Yusuke Yoshinaga

沖野修也率いる精鋭たちとレジェンダリー・ドラマーの劇的な出会い

日本ジャズの過去と現在を繋ぎ、その延長線上にある明日を照らし出す

●ワールドワイドな活動を展開するDJ/音楽プロデューサー・ユニット、Kyoto Jazz Massiveの沖野修也が2015年に始動させたアコースティック・ジャズ・ユニット、KYOTO JAZZ SEXTET。単なる懐古趣味にとどまらず、“ジャズの現在”を表現することをコンセプトとし、これまでに『MISSION』(2015年)、『UNITY』(2017年)という2枚のアルバムを発表しました。

●5年ぶりの新作では、ジャパニーズ・ジャズ・ドラムの最高峰、森山威男を全面フィーチャー。両者は2021年11月20日に新木場ageHa@STUDIO COASTにて開催されたTokyo Crossover/Jazz Festival 2021にヘッドライナーとして出演し初共演。世代を超えた気迫みなぎるコラボレーションで、オーディエンスを圧倒しました。

●アルバムには、クラブ・ジャズ・リスナーにも人気の森山の代表的レパートリーに加え、沖野修也書き下ろしの新曲「ファーザー・フォレスト」を収録。オール・アナログ録音による骨太でダイナミックなサウンドも魅力です。

KYOTO JAZZ SEXTET

類家心平(trumpet)、栗原 健(tenor saxophone)、平戸祐介(piano)、小泉P克人(bass)、沖野修也(vision, sound effect on 渡良瀬)、featuring森山威男(drums)

Produced by 沖野修也 (Kyoto Jazz Massive)

Recorded, Mixed and Mastered by 吉川昭仁 (STUDIO Dedé)


INTERVIEW:沖野修也

沖野修也率いるKyoto Jazz Sextetが日本のフリージャズの大御所ドラマーの森山威男を迎えた新作『SUCCESSION』を発表した。沖野が2016年から手掛けてきたプロジェクトが山下洋輔トリオや板橋文夫とのグループの活動でも知られる“日本のジャズの巨匠”を迎えることで、新たな局面に突入した。

沖野と言えば、Mondo GrossoやCosmic Villageで日本のアシッドジャズ・シーンをけん引し、Kyoto Jazz Massiveではフューチャー・ジャズ/クラブジャズのシーンで世界的に評価されるなど、ジャズとクラブ・ミュージックを結び付ける活動を長年続けてきた。同時代のアシッドジャズ、フューチャー・ジャズやブロークン・ビーツだけでなく、ロイ・エアーズやロニー・リストン・スミス、ジェイムス・メイソンなどのコズミックなジャズ・ファンク、アイアート・モレイラ、フローラ・プリム、アジムスなどのブラジリアン・フュージョンといったロンドンのクラブ・シーンでも支持されていた過去の音楽の要素を沖野は自身の作品に取り入れていた。その後、沖野は日本人によるスピリチュアルジャズのグループのSleep Walkerをプロデュースしたり、歌ものを軸にディスコやブギーなども視野に入れた自身のソロ・プロジェクトを開始したりと、様々なやり方でヨーロッパのクラブ・シーンに呼応していた。

そんな沖野の活動を振り返った時に、“海外のトレンド“に呼応しつづけてきただけでなく、もうひとつの特徴が見えてくる。それは“日本のジャズへのまなざし”だ。実は様々な形で日本のジャズもしくは日本のフュージョンの再評価を目論んできたのが沖野だった。このインタビューではKyoto Jazz Sextetがなぜ森山威男を起用したのかだけでなく、その起用が必然であったことを沖野が自身の歴史を振り返りながら語っている。

クラブ・シーンにおけるジャズの歴史を遡ると、ジャザノヴァが東ドイツのジャズを、ファイブ・コーナーズ・クインテットがフィンランドのジャズを、ニコラ・コンテがイタリアのジャズを、とヨーロッパ各国を代表するアーティストが自国のジャズを自身の作品に取り入れたり、コンピレーションなどでそれらの再評価を推し進め、自国のジャズを自国外にも知らしめようとしてきたことがわかる。近年でもジャイルス・ピーターソンとブルーイによるSTR4TAがブリット・ファンクをリヴァイバルしたことも記憶に新しい。それらに相当することを日本のクラブジャズ・シーンにおいてキャリアを通してやってきた存在は沖野修也を置いて他にいないことをこのインタビューは示している。

Kyoto Jazz Sextetの新作に付けられたSUCCESSIONというタイトルは“継承”を意味している。

YMO、そしてUKクラブ・カルチャー経由で出会った「日本のジャズ」

――今日は沖野さんと日本のジャズの関係について話を聞くところから始めさせてください。沖野さんはUKの雑誌I-Dマガジンがきっかけで日本のジャズに関心を持ったというエピソードを度々話されてますよね。

沖野修也(以下、沖野):I-Dで“ジャズ・ファンク・リヴァイヴァル“特集があったんです。そこでジャイルス・ピーターソンが取り上げられていて、ジャズ・ファンク・クラシックスのリスト30が掲載されていました。86年ごろだったと思います。

――89年のI-Dマガジンに掲載されたアシッドジャズ特集がアシッドジャズのムーブメントに火を付けたことで知られていますが、それよりかなり前にもジャズの特集があったんですね。

沖野:そうです。70年代後半にUKのディスコでジャズ・ファンクがかかっていたらしいのですが、それが80年代半ばにリヴァイヴァルしているという切り口の記事で、そこに川崎燎のレコードが載っていたんです。もともと僕はYMOから音楽に目覚めたくちで、同級生はYMOをテクノポップとして捉えていたのですが、僕の中では完全にフュージョン・バンドだったんですよ。『イエロー・マジック・オーケストラ』のレコードの帯にもフュージョンって書いてあった(※当時の帯には“キャッチ・アップ・フュージョン”と書かれていた)記憶があります。YMOのライブを観ると、高中正義、増尾好秋、渡辺香津美が参加していて、そこから渡辺貞夫、日野皓正に辿り着いたのですが、レコード屋に行くと、ジャズ・ギターのところに川崎燎のレコードもあった。だから、僕の頭の中では川崎燎は日本のフュージョンだったので、川崎燎でロンドンの人が踊っているのが衝撃で。リストには載っていませんが、誌面の写真にはデオダード、アイドリス・ムハマッドなどと一緒に沢井原兒の『Skipjack』が飾ってあったのも覚えています。そこから日本のジャズを掘るようになりました。当時、19歳でしたね。

――YMO、I-Dマガジンから日本のジャズへときれいに繋がっていますね。

沖野:ただ、本格的にのめり込んでいくには更に別のレイヤーがありました。1992年、25歳の時にモンド・グロッソのレコーディングでロンドンに行きました。そこでジョン・クーパーっていう日本のジャズのコレクターの家に遊びに行ったんです。ジョンから棚にびっしりのすごい量の日本のジャズとフュージョンを見せられて、これはまずいなと。「イギリス人の方が日本のジャズのことをよく知っているし、イギリス人に教えてもらってる俺どうなん?」みたいな気持ちになって。僕もすでにDJとしてレコードは買い始めいてたのに、日本のジャズのことは全然知らなかった。その時にジョンが聴かせてくれて、これを買えって言ってくれたのが板橋文夫の『Nature』(※1979年リリース。板橋文夫は70-80年代の森山威男との諸作でも知られるピアニスト)。日野皓正、渡辺貞夫、川崎燎の周りは買っていましたけど、森山さんとの出会いはロンドンのレコード・ディーラーからのプッシュでした。今から30年くらい前ですね。

――70年代末のロンドンには日本のジャズだけを扱うレコード屋フライ・オーヴァーがあって、79年から80年代初頭には日本のジャズがUKのクラブ・シーンでトレンドだったって話がありますが、ロンドンにはすごいコレクターもいたと。

沖野:日本のジャズはUKではジャップ・ジャズって呼ばれていて、専門のラジオ番組もあったんですよね。だから、ロンドンのDJのほうが日本のDJよりもはるかに詳しかったんですよ。

――80年代から90年代初頭までだったら、ロンドンのDJがプレイしていた日本のジャズのイメージとしては日野皓正、向井滋春、福村博あたりの高速ジャズサンバが人気で、日野皓正の「Merry Go Round」が聖典的な名曲だった歴史がありますが、沖野さんもその辺のレコードをプレイしていたんですよね。

沖野:もちろん買っていました。僕は京都で高速のブラジリアン・フュージョンを掘っていましたから。1987年にはもうアシッドジャズって言われていたので、DJによっては70年代のオルガンのジャズ・ファンクが好きな人もいた時代です。そんな中でも沖野兄弟はフュージョンっぽい志向がありました。

――沖野兄弟、つまりKyoto Jazz Massiveはフュージョンとブラジリアンに強いってイメージですよね。その頃、よくかけていたレコードだとどの辺がありますか?

沖野:アイアート・モレイラ「Tombo in 7/4」をかけまくっていたのですが、初めてDJをやった時には誰も踊ってくれなかったんですよね(笑)。でも『Straight No Chaser』(アシッドジャズとジャズで踊るムーブメントをサポートしたUKの雑誌。1988年創刊)の編集長ポール・ブラッドショウとロブ・ギャラガー(※アシッドジャズを代表するグループのガリアーノの中心人物)が京都にやってきて、とあるコンサートホールで早い時間にジャズ・イベントを行なったんです。そこに遊びに行った僕は、その日コンテナが僕の担当日だったので、面識もないのにポールとロブを無理矢理誘って連れて行きました。会場でフライヤーを配ったりしたので、彼らのイベントに行っていた人も流れてきて、たまたまその日のコンテナは超満員で大盛り上がり。ポールはその光景を見て、「京都はジャズですごく盛り上がっている」って勘違いして、衝撃を受けていました(笑)。実際のところ、その頃の京都にはジャズのシーンと呼べるものはまだありませんでした。当時、自分のイベントに来た人がジャズで踊っているかと言ったらそうでもなくて、東京からUnited Future Organizationを呼んでもお客さんが入らなくて大変だったんですよね。そんな中でも僕らは日野皓正の「Samba De La Cruz」みたいなこれで盛り上がらなかったら他は無理やろってのをかけて、それでも盛り上がらなかったって感じだったと思います。

――他には向井滋春「Nimuoro Neida」とか福村博「Hunt Up Wind」、土岐英史とサンバ・フレンズ『ブラジル』とかあのあたりですよね。

沖野:そうです。今となって定番ですけども、その頃は誰にも理解されなかった。そのくらい日本のジャズやフュージョンを買っているDJはいなかったんだと思います。

――もう『Straight No Chaser』はあった時期ですから、ロンドンから情報が届いてたわけですよね?

沖野:ロンドン在住の友達にジャイルス・ピーターソンとパトリック・フォージがディングウォールズでやっていたイベント「Talkin’ Loud and Saying Something」に行ってもらって、ウォークマンで録音してもらったテープを日本に送ってもらって聴いたりしていました。でも、ウォークマンをコートの中に入れてるからあまり聴こえないんですよ(笑) それでも頑張って聴き取っていました。もちろん『ストレート・ノー・チェイサー』のチャートはありましたけど、踊れるジャズやフュージョンの情報があるとしたら、それしかなかったような状況だったと思います。弟が古着屋で働いていたので、ロンドンに行ったときにカムデンのマーケットで売っているDJのミックステープを買ってきてもらって、そこから情報を得たりとか、そういう感じでした。

――そういうわずかな情報の中から日本のジャズの情報をなんとか探したり、自分で掘ったりしていたと。

沖野:日本のBaystateレーベル(※70年代末にハンニバル・マーヴィン・ピーターソン、ビリー・ハーパー、ビーバー・ハリスなどスピリチュアル・ジャズの録音を数多く残したレーベル)から1977年に出たレア盤で『Black Renaissance』(※ロイ・エアーズの右腕だったハリー・ウィタカーを中心としたプロジェクトの唯一のレコード。ウディ・ショウ、エイゾー・ローレンスら参加)ってレコードがあるんです。それはパトリック・フォージ(※クラブジャズとブラジリアンにおける偉大なDJ。Da Lataとしての活動でも知られる)がKiss FMでかけていたから僕も知りました。僕はロンドンの友達からパトリックの番組を録音して送ってもらって、それも参考にしながら日本で掘っていたので、『Black Renaissance』も買っていました。当時、Baystateってレーベル自体、関西のDJはチェックしていなかったので、レコード屋で5枚セットで売られていたりしましたよ。鈴木弘『Cat』も100円で買いました(笑)。後に和ジャズと呼ばれるレコードはほぼ1000円以下で買えた時代だったんですよ。

日本のアシッド・ジャズと“和ジャズ”の関係

――そのくらいクラブ・シーンでも日本のジャズへの関心が薄かったわけですが、沖野さんは1993年には阿川泰子のリミックス盤『SKINDO-LE-LE~From Jazz Funk to Brazilian Fusion』を監修されてます。これも和ジャズですよね。

沖野:「SKINDO-LE-LE」(※原曲はヴィヴァ・ブラジル。原曲やアライヴのバージョンがクラブ・シーンでの人気曲だった)という曲はアライヴ(※1980年代のフュージョン・グループ)で知ったのですが、ある時に日本のジャズ・コーナーを掘っていたら、「阿川泰子も『SUNGLOW』(※日本のジャズヴォーカリストの1981年のヒット作。バックは松岡直也のグループのウィシング)でこの曲やってる!」って気付きまして、渋谷The Roomでかけ倒していました。それがビクターの阿川泰子担当の方の耳にとまって、「モンド・グロッソで阿川泰子のリミックスをやってもらえませんか?」というオファーをいただいて、マスターテープから素材を起こして、リミックスをしました。

――つまり沖野さんが日本のジャズをかけていたところから生まれた企画だったと。

沖野:そういえば、あの頃、中村照夫さんと日本版のニューヨリカンソウルみたいなプロジェクトをやろうって話もありました。それこそウェルドン・アーヴィンとかを呼んで、そこに日本の新旧のミュージシャンを入れて、オリジナル半分・新曲半分くらいでやるって話でしたけど、実現しなかったですね。

――それはすごい話ですね。たしかに沖野さんは中村照夫をかけてるイメージありますよね。

沖野:そうですね、よくかけていました。雑誌『Groove』でCDだけでディスクガイドを選ぶ特集の時に中村照夫『Unicorn』(※1991年初CD化。日本人ベーシストの代表作。スティーブ・グロスマン、アルフォンゾ・ムザーン、レニー・ホワイトなどが参加したNY録音。レーベルはThree Blind Mice)のCDを選んだりもしていました。『Unicorn』は当時、DJが血眼になって探していたジャズ・ファンク/レアグルーヴ的なジャズのレコードです。中村照夫さんはそこから徐々にディスコやフュージョンの色が強くなりますが、70年代はジャズ・ファンクのレコードを残されていました。僕はレコードを探して、40年以上になりますが、『Unicorn』は二回した見たことがないんですよ。一回目は阿倍野のレコード屋で手に取っていたのに戻しましたからね。「中村照夫かー、俺はもうちょっとフュージョンっぽいほうがいいな」って思って(笑)。二回目は30年くらい前に神保町で見つけて買いましたけど、それ以降、見てないですね。それくらいレアな日本のジャズ・ファンクの最高峰のレコードだったので、CDで紹介しました。

――阿川泰子と同じで、沖野さんが中村照夫をかけていたから、声がかかったんですね。

沖野:ちなみにモンド・グロッソを辞めてから1997年に作ったコズミック・ヴィレッジの『Trinkets & Things』では川崎燎さんのカヴァーをやって、ご本人にも参加してもらっています。川崎燎は日本のフュージョンを代表するギタリストで、「アランフェス協奏曲」をギター・シンセサイザーで演奏した『RYO~アランフェス協奏曲』で近年も注目されている人ですね。DJ的には1979年の『Mirror Of Mind』(※マイケル・ブレッカー、ハーヴィー・メイソン、アンソニー・ジャクソンら参加のNY録音)に収録された「Trinkets & Things」が有名なのでブラジリアン・フュージョンの印象も強いですが、1976年の『Juice』ではジャズロック/ジャズ・ファンクもやっているんですよ。川崎燎はギル・エヴァンスともやってたり、シダー・ウォルトンのアルバムにも参加していたりする人で、ブラジリアン・フュージョンはひとつの側面でしかない。僕の中ではDJを始めた時の三大ジャパニーズ・ジャズが日野皓正、中村照夫、川崎燎でした。「Trinkets & Things」は後に竹村延和くんがサンプリングしたことでも有名になったり、ジャズをかけるDJの間では超リスペクトされています。

――ちなみに90年代半ばだと、96年に若杉実さんが『黄渦 Yellow Peril - Revenge Of Jap Jazz vol.01』を、DJ御用達のClassic Jazz-Funk Mastercutsってシリーズでも『Volume 6 The Definitive Jap-Jazz Mastercuts』を、って感じで日本でも海外でも日本のジャズのコンピレーションが出ていて、海外での日本のジャズの評価が盛り上がって、日本も連動していた時期でした。

沖野:僕は1989~1995くらいまで『Straight No Chaser』のチャートを担当していたのですが、そこでは日本のジャズやフュージョンのレコードと、日本のアシッドジャズが二層のレイヤーみたいになっていて、新譜も旧譜も両方注目されていました。僕が総合プロデュースしていたモンド・グロッソは1993年の『Mondo Grosso Etc.』でカシオペアDazzling」のカヴァーしたのですが、ロンドンで以前からカシオペアが人気だったので、ロンドンの人は「モンド・グロッソがカヴァーしてる!」って感じだったと思います。

――なるほど。モンド・グロッソはロンドンのムードに呼応していたと。

沖野:Kyoto Jazz Massiveが1995年にFor Lifeから出したアルバム『Kyoto Jazz Massive』、モンド・グロッソのリミックス「Vibe.P.M (Jazzy Mixed Roots)」を弟が手がけましたが、ベースラインとコード進行が日野皓正「Samba De-La Cruz」だったりとか、僕らも自分のルーツを作品の中に取り上げていたんです。そういうのもあって、日本のアシッドジャズと旧譜の日本のジャズが海外ではセットで受容されていたと思います。

――『Kyoto Jazz Massive』は改めて聴いてみると、演奏にも和ジャズ感があるんですよね。吉澤はじめさんたちが演奏しているのもありますけども。

沖野:吉澤はじめさんも中村雅人も僕ら界隈では和ジャズな感じですから。

――「Mas Que Nada」(※ブラジル人のジョルジュ・ベンによる1963年の名曲。セルジオ・メンデスのバージョンで大ヒットした)をやってもどこか和ジャズっぽいんですよね。改めて聴くと、Kyoto Jazz Sextetに繋がる志向は既に1995年の時点で聴こえる気がします。

沖野:そうですね。

――ここまで沖野さんにはいろんな話をしていただいてますが、これらを見ると沖野さんはデビューしてから一貫して日本のジャズを意識して活動されていることがわかるんですよね。

沖野:それには2つ理由があります。ひとつは自分のルーツがYMOだったのもあって、日本の音楽への愛着と誇りがあります。モンド・グロッソやKyoto Jazz Massiveで海外でライブやDJやっていると、これは自分が子供の頃に憧れたYMOのパリやロンドンでのライブと同じだと感じる。子供の頃に夜中のフジテレビで観たYMOが海外のオーディエンスを踊らせている光景にカルチャーショックを受けて、自分もそういうことをやりたいと思っていたのはあります。もうひとつはロンドンでレコード・ディーラーから日本のジャズを教えてもらってから「もっと日本の音楽を海外の人にも聴いてほしいし、日本の人にももっと聴いてほしい」って思い始めたことですね。その2つは今も変わっていません。

――その話を聞くと1993年のモンド・グロッソ『Mondo Grosso』でのカシオペアの「Dazzling」カヴァー、コズミック・ヴィレッジでの1997年の川崎燎との「Trinkets & Things」カヴァーもそうですし、1998年のコズミック・ヴィレッジによるYMOカヴァー集『Nice Age』の意図も理解できます。Kyoto Jazz Massiveの2021年作『Message From A New Dawn』のセルフ・ライナーノーツでも日野皓正の名前をあげているところまでいろんな点が一本の線で繋がりますね。

沖野:そうかもしれません。

――ところで沖野さんって昔から渡辺貞夫さんについてずっと言及されていますよね。

沖野:僕は日野皓正、中村照夫、川崎瞭をかけているイメージが強いと思いますが、渡辺貞夫さんの再評価はしつこく続けています。YMOを聴いていた頃、日野皓正、渡辺貞夫はテレビに出ていましたし、芸能人枠だったんですよ。でも、日本のジャズの入り口ってなると、やっぱりその二人なんですよね。好きなレコードはたくさんありますが、今、選ぶなら『ケニア・ヤ・アフリカ』『ムバリ・アフリカ』が好きですね。あと、僕にとっては渡辺貞夫さんとプーさん(菊地雅章)のコンビネーションも特別です。実は6月に出るRoot Soulのアルバムをプロデュースしたのですが、その中の1曲で渡辺貞夫さんとプーさんへのリスペクト曲があります。僕の作品ではできないかなと思っていましたが、Root Soulにはハマったので。Kyoto Jazz MassiveにはできなかったことをSleep Walkerに託したように、Kyoto Jazz SextetではできなかったことをRoot Soulに託しています。

クラブ・シーンを中心に再評価が進んだ“日本のジャズ”

――またひとつ日本のジャズとの接点が!その後、2000年頃になると海外の人たちが掘る日本のジャズの傾向も、日本のリスナーが面白がる日本のジャズの傾向も変わっていきます。1999年の井上薫による日本のジャズのコンピレーション『Samurai-Era』はその過渡期の状況がまとめて入っていて興味深かったりします。そんな中、2002年に沖野さんは和ジャズのコンピレーション『渋谷ジャズ維新-COLUMBIA編』をリリースします。コロムビアとデノンという日本のレーベルの音源をまとめたものです。

沖野:若杉さんから「Kyoto Jazz Massiveでコロムビア編をやりませんか」ってオファーをもらいました。板橋文夫『Nature』がコロムビアだったので、待ってました!とばかりに引き受けました。でも、フュージョンのイメージのKyoto Jazz Massiveにしてはジャズっぽい選曲になりましたね。

――モンド・グロッソやコズミック・ヴィレッジでやっていたこととは明確に違う選曲ですよね。

沖野:それには理由があって、2000年にKyoto Jazz Massiveのシングル「Eclipse / Silent Messenger」がドイツのCompost(※フューチャージャズ/クラブジャズの代表的レーベル)から出たのですが、同じ年に弟のエスペシャル・レコードからSleep Walker「Ai-No-Kawa」が出ているんですよ。Kyoto Jazz Massiveとして作るものはフュージョンの後継的な作品を作っていましたが、沖野修也としてプロデュースする立場としてはファラオ・サンダースやマッコイ・タイナーの直系というか、それこそ日本で言えば板橋文夫さんや森山威男さんの後継ともいえるような作品をプロデュースしていました。だから、コンピレーションを作るにあたっては制作者としてのKyoto Jazz Massiveと、プロデューサーとしてのKyoto Jazz Massiveとを一体化させたい気持ちから、こういう選曲になりました。

――Sleep Walkerはその後、2003年にアルバム『Sleep Walker』をリリースします。渋谷ジャズ維新ですでにSleep Walkerのリリースの準備がされていたとも言えますよね。ちなみに2002年にはUKのUbiquityから前述の『Black Renaissance』が再発されているんです。ちょうどシーンのトレンドがスピリチュアル・ジャズに移っていた。そのトレンドにもフィットしていたとも言えると思います。

沖野:Kyoto Jazz Massiveはシングル「Eclipse / Silent Messenger」を2000年に、2002年にアルバム『Spirit Of The Sun』をリリースしました。それらのベースはどちらかというと日本のフュージョンやクロスオーヴァーの現代版です。当時はフューチャージャズと呼ばれていて、Jazzanova、Koop、Kyoto Jazz Massiveという感じでもてはやされていましたが、DJ、コレクターとしての自分は和ジャズを始めとしたスピリチュアル・ジャズを掘っていました。Sleep Walkerが出た頃って、現行のスピリチュアル・ジャズのレコードは他になかったと思います。カルロス・ニーニョ(※LAのDJ、ミュージシャン。2001年からスピリチュアル・ジャズのグループのBuild An Arkを主催し、2004年に『Peace With Every Step』を発表)がそういう動きを見せていたくらいだったかな。2000年前後にはスピリチュアル・ジャズの現行版を作りたいというアイデアを持ち始めていて、それが渋谷ジャズ維新に繋がり、Sleep Walkerに繋がったのはあると思います。

――ちなみにスピリチュアル・ジャズへの関心はKyoto Jazz Massiveの『Spirit Of The Sun』にも入っていると思いますが、どうですか?

沖野:冒頭の「The Brightness Of These Days」は僕らなりのスピリチュアル・ジャズ解釈です。楽器がフェンダーローズやエレクトリックベースなのですが、そこはスリープ・ウォーカーとの差別化を考えた部分です。どちらも吉澤はじめさんが弾いているので、アコースティックとエレクトリックで分けるディレクションはしました。

――Kyoto Jazz Massiveでやるのはコルトレーン的なベクトルじゃなくて、Black Jazz レーベル的なソウルやファンクの要素が入ったスピリチュアル・ジャズってことですよね。

沖野:そういうことです。

――その後、日本のジャズが発掘されて行って、2005年には板橋文夫『WATARASE』や、福井良『Scenery』が再発されます。2006年には沖野さんはインパルスのコンピレーション『Succession of Spirit』、翌2006年にはニンバスのコンピレーション『Day Dream』とスピリチュアル・ジャズのコンピレーションをリリースしています。同じころ、Think!レコードが日本のジャズの再発を開始します。この頃はどちらかというとビバップやハードバップっぽいものが注目されていて、松本英彦や白木秀夫あたりのリイシューが話題になったと思います。日本のジャズに関しては沖野さんの関心とは少し違うところにもトレンドがあったかなと思います。とはいえ、2009年に沖野さんは『Music For Narita Airport』をリリースされています。ここには白木秀夫や福井良が収録されていて、当時の和ジャズの再評価の流れを汲んだコンピレーションになっていたと思います。

沖野:成田空港の飛行機を降りて空港に入ってすぐにある通路のBGMを僕が担当していました。海外から来た人の日本に来たな感を盛り上げたり、日本に帰ってきた人が帰ってきたなって感じられる状況を音楽で演出してほしいというオファーでした。その時の成田空港の壁面の装飾も着物の素材だったり、和な感じだったので、その時は僕が持っているアーカイブの中でも和に寄せた選曲にしました。

――なるほど。

沖野:ここにジャザノヴァの「Hanazono」が収録されています。2002年のファーストの『In Between』からの曲で、ここでは吉澤はじめさんがピアノを弾いています。この曲が僕の中でのスピリチュアル・ジャズと“和”のジャズの接点になりました。Kyoto Jazz Massiveはずっとフュージョンに強いイメージでしたが、2000年代にはスピリチュアル・ジャズのイメージも出てきたと思います。そんな時期に聴いたジャザノヴァと吉澤はじめのコラボには和とスピリチュアル・ジャズのみならず、フューチャージャズやクラブジャズの要素もあったので、この曲はいろんなアイデアの接点になりましたね。あと、2009年に、僕は琴と尺八、篠笛のユニットのZANがリリースした『Neo Tokyo Lounge』で1曲プロデュースしています。知られざる沖野修也ワークスですね。

――それは知らなかったです。ちなみにDJ Krushが和楽器を入れた『寂 -Jaku-』が2004年でした。その頃はDJ Korosukeが村岡実が尺八でジャズをやった『Bamboo』を入れたミックスなんかもしていた時期で、そんな2000年代のムードに沖野さんは呼応していたのかなと思いました。例えば、石川晶のカウント・バッファローズや猪俣武のサウンド・リミテッドなどのレアグルーヴ系はMUROさんが、松本英彦や白木秀雄などのハードバップやモードは須永辰緒さんのイメージがありましたが、その頃、沖野さんはスピリチュアル・ジャズと和のテイストを掘っていたと。他にもオブスキュアなところは尾川雄介さんが追求していたり、DJがいろんなベクトルで日本のジャズを掘っていた時期ですね。

沖野:たしかにそんな感じでしたね。

KYOTO JAZZ SEXTET始動、そして森山威男の起用

――さて、ここからようやく本題ですが、2015年にKYOTO JAZZ SEXTETを始めています。1枚目は『Mission』は現行のUSのジャズへの関心が出ているかなと思います。2枚目の『UNITY』から沖野修也色がかなり出ていて、今回の3枚目『SUCCESSION』の通じる部分はそこから聴こえるかなと思います。

沖野:『Mission』はブルーノートのカヴァー集で、アレンジ面で現行のジャズだけでなく、ブレインフィーダーの人がアコースティックのジャズやったらどうなるのかとかも考えていました。ただ、取り上げたのは64年から66年のブルーノート・ナンバーでしたから、メロディーのインパクトが強かった。ベースラインやリズムで工夫していますが、聴いた人のイメージではジョー・ヘンダーソンとか、ハービー・ハンコックになってしまうので、そこは超えられないハードルがあったと思います。2枚目UNITYではいちから曲を書いたので、アメリカでもロンドンでもなく、日本でジャズを作るっていうことはどういうことなのか考えましたし、アレンジ面だけではなくて、テーマとメロディーの中にどれだけ日本らしさを入れられるかを考えました。ナヴァーシャが歌っていても和を感じさせるものにしたかったのはありました。トモキ・サンダースが入っている「Song for Unity」は自分なりに祭りや民謡は意識した曲ですね。

――『UNITY』でやっていたことは『Music For Narita Airport』から繋がっている気がしますがどうですか?

沖野:『UNITY』での作曲の作業って僕の中では大きくて、スピリチュアル・ジャズと呼ばれるものはアメリカにもヨーロッパにも日本にもありましたが、それを2010年代に自分がいちから書くにあたって、どうやって日本らしさを出すかっていうところは苦労しました。ビリー・ハーパーがソーラン節(※1979年『Soran-Bushi, B.H.』収録。レーベルはDENON)をやっているんですよ。日本人だから僕らにとってはビリー・ハーパーの逆のベクトルになるわけですが、あれと並べてかけられるところまではいきたいと思っていました。

――『UNITY』に関しては日本のジャズからの影響は入っていますか?

沖野:KYOTO JAZZ SEXTETに関してはSleep Walkerですよね。Sleep Walkerが解散した後に、彼らが担っていた役割のことを考えました。もしそれに対して僕にできることがあるとしたら、というのは考えました。バンドとしての在り方や作曲家としての吉澤はじめさんのことが頭にありましたし。そもそも「Song for Unity」は吉澤はじめに捧げるって公言していますから。

――なるほど。次は新作『SUCCESSION』にいきたいんですが、その前にまた和ジャズの話をしたいんです。2018年にBBEから『J Jazz: Deep Modern Jazz From Japan 1969-1984』、JAZZMANから『Spiritual Jazz Vol.8 Japan: Parts I & II』が出ました。その間にもいろんな和ジャズの再発があり、今も続いています。日本のジャズ・リスナー的には突然、海外で始まって、タイミングが意味不明のトレンドではありますが、UKでは和ジャズが盛り上がっていますし、2010年代後半からレコードも値段が上がっています。

沖野:あの時期は、和ジャズもシティポップも日本のディスコやブギーも、とにかく日本のレコードが一気に高騰していったんですよ。僕が20代のころ、笠井紀美子の日本語バージョンを日本のクラブでかけるとお客さんはドン引きしていました。オリジナルラブとかが出てからようやく日本語をかけられるようになったので、僕が25歳から30歳までの頃はUAもCharaもACOもbirdもいたので、日本語がOKでした。でも、20代前半のころは日本語はタブーで、山下達郎とかかけづらい雰囲気だったんです。その頃って、海外のDJも「日本語がなんか気持ち悪い」みたいなことを言っていました。それが、2010年代の後半になると日本語もOKだし、和ジャズも自分が知らないところまで更に掘られていて、ロンドンのコレクターには勝てないみたいな感じになっていましたね。でも、ヨーロッパの現地の人と話すと、昔から好きな人はずっと買っていたらしいんですよ。ちょっと先に行きたいDJやコレクターの心理っていうか、デイム・ファンク(※ディスコ、ブギーをはじめ、80年代のサウンドを得意とするビートメイカー)が2009年に渋谷The Roomに来て回した時に彼はやたら日本語のブギーの話をしていました。デイム・ファンクは日本語もOKにして、ジャズやシティポップやブギーにも早くから行っていたんですよね。日本のジャズの再評価に関しても、大きく世に出るタイミングは2018年ごろでしたけども、その前から少しずつ始まっていたんでしょうね。

――福井良も2010年代になってから急にまた人気が高まったりしましたしね。

沖野:ジャイルス・ピーターソンの渋谷ジャズ維新『Shibuya Jazz Classics - Gilles Peterson Collection - Trio Issue』がターニングポイントだとは思いますけど、あれからずいぶん経っていますから、もしかしたら何周かしているのかもしれません。

――というような感じで、海外での日本のジャズ評価みたいなのが大きくなったタイミングで、新作では森山威男を起用したと。

沖野:BBEからの森山威男『East Plants』の再発がきっかけのひとつではあります。僕が主宰しているTokyo Crossover/Jazz Festival 2021に海外勢を呼びたかったけど、コロナ禍で呼べなかった。それこそエマ・ジーン・サックレイとか呼びたかったんですけどね。だから、日本人をヘッドライナーにするなら誰にしようかって考えた時にBBEからの再発が頭に浮かびましたし、トランペットの類家心平くんが森山さんと一緒にやっていたので、類家くん経由なら出てもらえるかなと考えました。

――BBEからの再発があったからこそ、KYOTO JAZZ SEXTETと森山威男との共演が自然に見えるってのもありますよね。

沖野:BBEを主催しているPeter Adarkwahのことも意識しました。ジャイルス・ピーターソンもうらやましがるだろうなって考えもありました。実は、ジャイルスからはWe Out Here Festivalへの出演オファーをもらったんですよ。KYOTO JAZZ SEXTET feat. 森山威男で出てほしいということでしたが、森山さんの体調を考えると難しそうで残念ながら実現はしませんでした。

――ちなみに森山威男って最近までリリースしていて、作品が多い人なんですよね。新譜は森山威男関連名曲選的な感じもありますが、どのあたりのアルバムを参照したのでしょうか。

沖野:「Watarase」が入っている1981年の『Smile』(※森山が現在も演奏するレパートリーが並んだ名作。メンバーは板橋文夫、国安良夫、望月英明、松風鉱一)はもちろんですが、参考にしたのは2002年の『森』『山』(※メンバーは田中信正、望月英明、音川英二。アメリカからサックスのジョージ・ガゾーンを迎えた編成)の2枚です。『森』『山』は愛聴盤だったのと、『SUCCESSION』をデジタル・フォーマットやCDに落とし込むための参照点にもなりました。

――インスピレーションになった『森』『山』はDJ的な要素がなくて、かなり自由な演奏をしているアルバムなわけで、これまでのKYOTO JAZZ SEXTETとはかなり違いますよね。

沖野:森山さんがレコーディング中にずっと仰っていたのですが、「自分はリズムが苦手だし、フリージャズの人間なので、こういう音楽はポンタに頼みなさい」って(笑)。僕の選曲はダンサブルで、DJが好むような曲なので、DJが好きそうな音楽にしつつ、ご自分ではフリージャズだと仰る森山さんの良さをどれだけ引き出せるかが課題としてありました。Sleep Walkerは完全にDJプロデュースの音楽で、吉澤はじめさんも踊れることを前提に曲を書いていたので、森山さんとは違うわけです。逆に言うと、森山さんの中にあるダンサブルな部分を抽出しつつ、森山さんを活かすことを考えました。

――なるほど。

沖野:1曲だけ僕が書いている「Father Forest」のエンディングはフリー・パートになっています。実はデモ段階はリズムの中で森山さんがソロを叩くイメージでしたが、森山さんがそれは嫌だって仰ったんです。(ベースになる)リズムがある中でフリーに演奏するのはフリーじゃないって。あそこは森山さんに自由に叩いてもらって、ホーン・セクションが阿吽の呼吸でフレーズを差し込んでいっています。つまり、最後は偶然終われたんですね。全編リズムが明確で、リズムの中でドラムソロを叩いてもらっている曲もありますが、新曲は完全に自由に叩いてもらいました。もしかしたら、クラブでかけたら、あそこの部分でお客さんの足が止まってしまうかもしれない。でも、メンバーと話し合って、それでもこれで行くって決めました。「インプロヴィゼーションこそジャズ」と仰る森山さんの良さをどれだけ引き出せるかは僕のミッションでした。

――実に森山威男らしいエピソードで、それでこそ森山威男だよ!って思います。DJの人たちもレコードを買ってクラブでかけている福井良の「Early Summer」って名曲がありますよね。あの曲はダンサブルなんですけど、絶対に足が止まるような2分を超えるドラムソロが入ってますよね。でも、そこも含めてかけないとあのレコードをかけても楽しくないじゃない。ドラムソロが始まる時のスリリングな感覚とドラムソロが終わってピアノが入ってくる時の気持ち良さもあの曲の魅力です。「Father Forest」の話は「Early Summer」に通じる話だと思います。

沖野:これで踊れるのかはわかりませんが、勢いでみんな踊って盛り上がってしまうみたいな面白さは結果的に録音できたと思っています。ひょっとすると明確なビートがあって、森山さんがそこでソロに行って、4小節ごとにメロディーが出てきて、きれいに終わる構成のままだったら、お客さんの足は止まらないけども、音楽としては面白いものにはならなかったかもしれない。そう言った試行錯誤は今後、ライブでもやっていくと思います。

KYOTO JAZZ SEXTETとアナログ・レコーディング

――最後にアナログ・レコーディングに関して聞かせてください。

沖野:アナログのテープで録ったのですが、ヴァイナルにする際も最後のカッティングまでアナログで出来たらと思っています。そこはファーストから一貫していて、KYOTO JAZZ SEXTETは入り口から出口までアナログで行こうと。アナログにしか出せない音があると思っているので。それにアナログの録音はやり直しがきかないので、一発勝負の緊張感がある。もちろん、テイクによってはメンバーの意見を取り入れて、やりなおした曲もあります。でも、曲の途中でのやり直しやダビングはできなくて、やり直すなら頭から最後まで録りなおすしかない。その緊張感がアナログ・レコーディングの醍醐味でした。個人的にはレコーディングを始める前にどれだけ森山さんをノせられるかのは心配ごとでした。だって、森山さんとしては「沖野修也って誰やねん?」ってことだと思うんです。そこをコミュニケーションの中で良い状態には持って行けたと思います。でも、僕はレコーディングの中身の演奏の部分に対してはタッチできないので、そこは任せるしかなかった。音源を聴いてもらえればわかりますが、森山さんの雄たけびが随所に入っています。ご本人的にもノッて演奏していただけたので、メンバーの演奏とレコーディング環境と、一発勝負の緊張感とがうまく噛み合わさって、この仕上がりになったと思っています。

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