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マイルス・デイヴィスを語る10枚のアルバム

没後30年経ってもなお、マイルス・デイヴィスは彼の生きた時代において、最も偉大なミュージシャンの一人だ。かのトランペッターの堂々たるディスコグラフィーはまさに、疑問を投げかけ続け模索し続けた彼の生き様を現しているといえる。そしていかに彼の存在が、ジャズという世界を飛び越えて、様々な方面へ影響を及ぼしたかがわかるだろう。ここでは、その事実の証として、そんな彼が生み出した数々の伝説の作品の中から10枚を筆者の主観で選び抜き、紹介したい。

Birth of the Cool(Capitol – 1957)

1949年1月21日と4月22日、そして1950年3月9日の3度のセッションに分けてレコーディングされたアルバム『Birth of the Cool』は、ジャズをそれまでのビバップから解放し、新時代へと導いた一枚だ。時の巨匠たちのバップへの狂気と焦燥はなりをひそめ、当時まだ23歳だったマイルス・デイヴィスに率いられた、よりスローで、ごくごく丁寧に描かれたハーモニー重視の幽玄な響きを奏でる、いわば室内楽のような「クール」と称されたジャズが台頭してきたのだ。そのスタイルは、決して全てのジャズ愛好者に受け入れられたわけではなかった。クラシック音楽に着想を得たこの新しいジャズの形に対し、ある種の冷たさを感じると苦言を呈する者も中にはいた。間隔を空けてレコーディングセッションを行い制作された『Birth of Cool』には、錚々たるメンバーが参加した。リー・コニッツジェリー・マリガン、ジュニア・コリンズ、サンディ・ジーゲルシュタイン、ビル・バーバー、J.J.ジョンソンカイ・ウィンディング、マイク・ゼリン、アル・ヘイグジョン・ルイス、ジョー・シュルマン、ネルソン・ボイド、アル・マッキボン、マックス・ローチケニー・クラークギル・エヴァンスの全員が、このビロード地のように深みのある衝撃作に参加したのだった。マイルスは、そんな中においてビッグバンドにも、小さなグループ楽曲にも参加することはせず、ノネットのリードを務めることを選択した。その結果、ジェリー・マリガン、ギル・エヴァンス、ジョン・ルイスがマイルスのために作り上げたアレンジを際立たせることに成功したのだった。ここで奏でられた楽曲のモダンさと厳格さは、おそらくジャズ史における最も偉大な革命をいくつも遺したと言えよう。しかし、この前衛的な名作は結果的にセールスには結びつかず、失望したキャピトル・レコード社はマイルスとの契約の更新を拒否。その後マイルスはプレスティッジ・レーベルとの契約書にサインしたのだった。

Relaxin’ with the Miles Davis Quintet』 (Prestige – 1958)

このアルバムは、後にマイルスの第一期クインテットとして知られるようになったメンバーにより製作された、数々の名作のうちの一つだ。トランペッターのマイルスが、サクソフォニストのジョン・コルトレーン、ピアニストのレッド・ガーランド、ドラマーのフィリー・ジョー・ジョーンズそしてベーシストのポール・チェンバースを一つにまとめ上げたのだ。『Relaxin’』のレコーディングは1956年5月11日と10月26日に行われ(リリースは1958年3月)、この2度のセッション中に3つもの傑作が生み出されることとなった:『Steamin’ with the Miles Davis Quintet』、『Workin’ with the Miles Davis Quintet』そして『Cookin’ with the Miles Davis Quintet』だ。このアルバムは、ポストビバップ時代のバイブル的存在となった。アルバムに収録された6つのトラックを聴くと、凄絶なビバップの最盛期がもはや遥か何光年も前のもののように感じてしまう。楽曲はマイルスのバンドがステージでその当時頻繁に演奏していたテーマをふんだんに盛り込んだもので、レコーディングスタジオで収録したものは、非常に完成度の高いものとなった。また、彼らのレパートリーの奥深さについても、ここで触れておきたい。曲中には、ブロードウェー最高峰の作曲家たちが手がけた数々の素晴らしいテーマが使われており、その中にはリチャード・ロジャース(「I Could Write a Book」)、ジミー・ヴァン・ヒューゼン(「It Could Happen to You」)、ハリー・ウォーレン(「You’re My Everything」)やフランク・レッサー(「If I were a Bell」)などの楽曲が含まれる。マイルス・クインテットはこれらの印象的でポピュラーなメロディーを使って、聴く者をハッとさせるような素晴らしい楽曲を作り出した。「Oleo」のガーランドのソロにしても、「If I were a Bell」のコルトレーンのソロにしても、はたまた 「You’re My Everything」のマイルスの囁くようなパッセージにしても、全てにおいて神がかっているのだ。また、ジョーンズも(余談ではあるが、彼はマイルスが執筆した自叙伝の中に最も多く登場するドラマーの一人である)、必要不可欠な存在であることがここで明白となった。曰く「俺らのやることを後押しする、炎みたいなものをフィリー・ジョーは持っていた。俺がこれから何をするか、俺がどんな演奏をするのか、彼は全て理解していた。俺のすることを予測していたし、俺の考えを感じ取っていたんだ」

Milestones』 (Columbia – 1958)

第一期クインテットにプラス1が加入した。ニューヨークのコロムビアスタジオにて1958年2月4日と3月4日に分けてレコーディングされ、同年9月2日にリリースされた『Milestones』では6人目のメンバーを迎えることとなった。そしてそれは、後にマイルスが自叙伝で語った話によれば、バンドにとっての鍵となる要素であったという。「俺としては、キャノンボール・アダレイのブルージーな音を俺たちの中に取り入れて、他の要素を広げようという狙いがあったんだ。ブルースを原点に持つキャノンボールのアルトサックスと、コルトレーンのハーモニー重視の和音調のプレイとを組み合わせることで、その型にとらわれない自由なアプローチを通して何か新しいもの、新しいサウンドが作れるんじゃないかと思ったんだ。というのも、コルトレーンの音はその時点ですでに新しい方向に向かっていたからね」。この2人のサクソフォニストの異なるプレイ・スタイルのコントラストこそが、『Milestones』を生み出す起爆剤となったのだ。コルトレーン、レッド・ガーランド、ポール・チェンバース、フィリー・ジョー・ジョーンズにこの新たなゲストを加え、マイルスはまたしても傑作を世に送り出した。それを証明するには、タイトルトラックを聴くだけで十分だろう。歴史に名を残す軽やかなテーマをもつこの楽曲では、全員が完璧にそして的確に、そこにあるべき音を奏でている。作曲にあたり、マイルスはピアノによって課せられるある種の和音の制約から自らを解放した。2つの和声を行き来するスタイルが、ビバップの曲折するコード進行と置き換わった。セロニアス・モンクの「Straight, No Chaser」のカバーでは、マイルスは肩の力の抜けた、しかし見事な長尺のソロを披露している。それはまるで永遠に続くかのように当て所なく、そしてその軌跡は空へとくねりながら伸びる煙のように予測不能だ。コルトレーンも、同じく素晴らしい演奏を披露している。マイルスは、自叙伝の中でこのレコードがいかに特別であったかを力説している。「このレコードのバンドのサウンドが大好きだった。俺たちの間には何か特別なものがある、そう確信した。コルトレーンとキャノンの演奏はとにかくぶっ飛んでいたし、俺たちはその頃にはもうお互いにすっかり馴染んでいた。俺が初めて本格的にモーダルに曲を書き始めたのも、このレコードからだった」。また、この名作で注目すべきもう一つのポイントは「Sid’s Ahead」というトラックだ。この曲では、マイルスが吐いた暴言に腹を立てたレッド・ガーランドがセッションを放棄したため、マイルスがピアノを弾くことになったのだという。

Kind of Blue』 (Columbia – 1959)

多くの人が、『Kind of Blue』を、今世紀史上最高の名盤と評してきた。そして、レコードのカバーこそマイルスが飾っているものの、マイルスはこのモーダル・ジャズの名作はビル・エヴァンスの演奏を中心に組み立てられたものであったことを隠すことなく語っている。バド・パウエルナット・キング・コールそしてレニー・トリスターノの影響を受けたと自ら語るこのピアニストは、発表した2枚のレコード(1957年の『New Jazz Conceptions』、1959年の『Everybody Digs Bill Evans』)でこの当時すでにジャズ界で注目を集め始めていた。しかし、サクソフォニストのジョン・コルトレーンキャノンボール・アダレイ、ベーシストのポール・チェンバースとドラマーのジミー・コブと共に作り上げたこの『Kind of Blue』というレコードの発表は、彼を王座へと押し上げたように感じる。このアルバムの登場で、ハーモニー重視のハードバップ時代を乗り越え、より幅広いハーモニーのレンジと、それに伴うより自由な即興演奏を可能にするモーダル時代へと続く道を切り拓いたのだ。元はといえば、バルトークラヴェルといった、その作曲の中でモードを使用した大勢のクラシック音楽の作曲家たちをマイルスに教えたのは、ビルだった。それに加え、マイルスはブルースにおけるモードの特徴についての、自らの知識を応用した。ビルとマイルスは共にテーマのラフ案をいくつか展開し、それを1959年3月2日にスタジオにやってきた他のメンバーに聴かせた。マイルス・デイヴィスはバンドメンバーたちのアドリブ力を心から愛していて、それを初っ端のファーストテイクで捕えようとしたのだ。マイルスは、その音楽人生の中において初めて、自分と同じように経済、空間、そして静寂を愛するピアニストに出会ったのだ。たとえば、レコードの最後に「Flamenco Sketches」というビルが作曲したトラックが収録されている。「俺は彼の演奏に惚れてしまったんだ」と、のちにマイルスは述懐している。「ビルの弾くピアノは静かに燃える炎のようで、俺はそれが好きだった。彼のピアノとの向き合い方なのだろうか、彼がピアノから引き出す音色はまるでクリスタルガラスのような、あるいは透き通った滝を流れ落ちるキラキラと光る水のようだった」


Sketches of Spain』 (Columbia - 1960)

常に革新的でありながら、マイルス・デイヴィスはそれに加えて、挑戦するレパートリーという点においても、驚きをもたらした。もちろん、本作『Sketches of Spain』も例外ではない。このアルバムのレコーディングは、1959年11月15日と20日、1960年3月10日の3日間にわたるセッションで行われた。仲間であったサクソフォニストのジョン・コルトレーンとキャノンボール・アダレイが去り、マイルスはそれまでに『Birth of the Cool』『Miles Ahead』『Porgy and Bess』で共演していた、カナダのピアニストで編曲者のギル・エヴァンスを頼った。ホアキン・ロドリーゴが1939年に作曲した「アランフエス協奏曲」を友人の家で聴き、すっかりその魅力の虜になったマイルスは、このクラシックの定番レパートリーや、エイトル・ヴィラ=ロボスマヌエル・デ・ファリャなどの曲を使って新アルバムを構成したいと考えていた。しかし、1960年7月18日に発表されたこの『Sketches of Spain』自体が、今ではすっかり定番となったことは疑いようがない。ギル・エヴァンスのアレンジの手腕によりこの協奏曲は、他に類を見ない特色を持ったジャズオーケストラ曲へと変貌を遂げた。アンダルシアの民族音楽やフラメンコの影響、そしてイベリア半島の音楽要素全てがここに詰まっている。ディレクター/サウンドディレクターとして参加したエヴァンスは、素晴らしい演奏とその抒情的なメロディで、物語と情景を見事に表現してみせた。派手な煌びやかさは時として、生粋の美しさの前ではなす術もないものである。この黄色に燃えるようなスペイン伝統音楽の新解釈というたった一つの情景の中において、マイルスは自身の作品の中でも最も美しく、最も詩的なフレーズをいくつも披露している。


Miles Smiles』 (Columbia – 1969)

かの有名な、マイルスの第2期クインテット時代。1964年から1968年にかけて、マイルスは自身の音楽人生の中でも最も独創的で強い影響力を持ったバンドを率いた。バンドメンバーには、その後レジェンドとなった若き巨匠たちが選ばれた:ピアニストのハービー・ハンコック、サクソフォニストのウェイン・ショーター、ベーシストのロン・カーター、そしてドラマーのトニー・ウィリアムスだ。このクインテットでレコーディングした作品は『E.S.P.』、『Sorcerer』、『Nefertiti』、『Miles in the Sky』、『Filles de Kilimanjaro』、『The Complete Live at the Plugged Nickel 1965』、そして1966年10月24日と25日にレコーディングし、1967年2月にリリースされた本作、『Miles Smiles』だ。この第2のクインテットを結成した当時、マイルスはフリージャズに特別興味があったわけではなく、新メンバーと共に何か新しいことにチャレンジしたいと模索していた。このバンドは、全メンバーに等しく権利や決定権が与えられた、マイルスにとって初めての本物のバンドでもあった。リーダーが最初の言葉を発し、仲間がその後にソロで続くという形式は過去のものとなった。アドリブの一つ一つがワイルドで瑞々しく、リズムは混ざり合い、スウィングたっぷりのシーケンスから、たゆたうようなインタールードに移り変わっていく。端的に言えば、全てが予測不可能。とりわけ、マイルスの演奏はそれが顕著で、それを他の奏者たちが高い独創性で周りを包み込んでいる。1人立っていた一段高い台座から4人の仲間と同じ目線まで降りてきたことで、直感的で繊細な、真に「自由な」ジャズを創造したのだ。本作で披露したアヴァンギャルドなハードバップは、ロン・カータートニー・ウィリアムスハービー・ハンコックらの緊密なパートナーシップの上に成り立っている。何者にも囚われない自由さで交わる3人が見せるやり取りにはハッとさせられるほどで、彼らはバンドのリズム隊としての役割を再定義した。そして、彼らの役割は常にリズムという枠だけに留まらない。このアルバムでは、彼らこそが、この素晴らしいバンドのサウンドの中心を担っているといえるのだ。



In a Silent Way』 (Columbia – 1969)

ジャズ・フュージョン、ジャズ・ロック、エレクトロニック・ジャズ – 名称は関係ない。はっきりしていることは、『In a Silent Way』というアルバムは真っ当な革命をもたらしたということだ。しかしそれは、穏やかに、そして緩やかに、ゆったりとしたペースで行われた。このアルバムにはそれぞれ20分ほどの楽曲が2曲収録されており(レコード盤発表時には、両面に1曲ずつ収録)、本作品においてマイルスは、ジャズをそれまでのアヴァンギャルドな方向性からロックへの道へと徐々に導いていった。この作品の最初から最後までを貫くのは、ジョン・マクラフリンのエレキギターという1本の糸だ。それが、キーボードのジョー・ザヴィヌル(このレコードのもう1人のいわば錬金術師)、ハービー・ハンコックチック・コリアらと混ざり合った時、独創的で親密な空気が醸し出される。「ギターの弾き方を知らないかのように弾いてくれ」と、マイルスは若きイギリス人ギタリストに注文をつけた。マクラフリンは、彼がまだトニー・ウィリアムスのLifetimeというグループのメンバーだった頃に発掘された。マイルスの要望に困惑したマクラフリンだったが、いくつも魅力あるフレーズを紡ぎ出した。サイケデリックなニュアンスを含んだ彼のグルーヴは、マイルスが繰り出す的確で断続的なフレーズで彩るのにぴったりの、最高のカンバスとなった。『In a Silent Way』というのは、まさに的を射たタイトルである。間や静寂といったものの存在こそが、このアルバム収録曲の特色といえるからだ。マイルスが追い求めた理想を支えたのが、テオ・マセロの存在だ。プロデューサーである彼は、セッションを収録したテープを何時間もかけて聴き込み、このユニークなコラージュを形にしていった。彼の影響力は、今日に至るまで、いまだに根強く残っている。


Bitches Brew』 (Columbia – 1970)

In a Silent Way』が作り出したリズムは確実に新時代への礎を築いたが、全てが本当の意味で変化を遂げたのは同1969年の夏のことだった。マイルス・デイヴィスは12名のミュージシャンとスタジオに籠り、1970年4月に発売され、後に伝説の2枚組の名盤となる『Bitches Brew』をレコーディングした。ジャズ、R&B、ファンク、ロックンロールのぶつかり合いはもはや暴力的であった。過去に誰も聴いたこともないような代物だ。それはまるで、90分間にわたるマジック技を見ているかのようだった。マイルスは彼なりのヘンドリックスやファンク、ロック、ブルースそしてジャズの解釈を披露してみせたのだ。その斬新さは、まだその複雑なメッセージ性を受け止めるほど成熟しきっていなかった若いオーディエンスには受け入れられなかった。一方で純正主義者らは、マイルスは悪魔に魂を売ったのだと考え、中にはコマーシャリズムに陥ったと批判する者さえ現れた。そのような外野の声は、結果的にはナンセンスだったと証明される。この究極ともいえる楽曲は当時アメリカのラジオで流れていたようなスタンダードな音楽とは遠くかけ離れ、また凡人の耳には刺激が強すぎた。この作品でも、マイルスと仲間たちは事前打ち合わせもなく、スタジオで何時間もかけてシンプルなモチーフやコード進行を元にアドリブを重ねた。「まるで、オーケストラのようだったよ」とドラマーのレニー・ホワイトは語っている。「指揮者はマイルス。私たちはヘッドフォンをつけていた。お互いの音が聴けるようにしなければならず、セッション中は他のゲストは立ち入れなかった。写真撮影も禁止、そして全てライブ・レコーディング。オーバーダブは一切なし。3日間、朝10時から午後1時までみっちりだ」。仕切り役のマイルスは仲間たちに自由に演奏させたというが、レコードの音源によく耳をすませると、ところどころマイルスの指示を出す声が聞き取れる。本作におけるマイルスの演奏スタイルはこれまでより切れ味が鋭く、もっといえばアグレッシブである。信頼を寄せるサクソフォンのウェイン・ショーター、ベースのデイヴ・ホランド、エレクトリック・ピアノのチック・コリア、そしてドラムのジャック・ディジョネットに加え、『Bitches Brew』の6つのテーマではジョー・ザヴィヌルジョン・マクラフリンラリー・ヤングレニー・ホワイトドン・アライアスジュマ・サントス、そしてベニー・モウピンをフィーチャーしている。また、本アルバムは、そのポストプロダクションの過程も特徴的だった。ループやエフェクト、エコーチェンバーやいくつものコラージュが使用された。その作業量は途方もなく、マイルスとプロデューサーのテオ・マセロはこのエレクトロニクスを多用した作品を、何時間もかけて作り上げていった。「Pharoah’s Dance」は実に19もの要素で構成されている:右のチャンネルにはピアニストとドラマー、左には他のメンバーの音に加え、別のピアニストとドラマーの音…『Bitches Brew』とは、可能性の模索だった。本番一発撮りの古き良きジャズのジャムセッションとは程遠いところにあって、その結果、妖しく魅惑的な作品に仕上がっている。純粋なロックでもなく、かといって純粋なファンクでもなく、もはやジャズですらない。それはまるで違う、別の何かであった。


On the Corner (Columbia – 1972)

On the Corner』は、マイルス・デイヴィスのアルバムの中で最もファンク寄りの作品である。しかしそれは、単純にグルーヴィーなアルバムジャケットを担当したコーキー・マッコイというイラストレーターの絵に寄せたものというわけではない。この作品で初めて、マイルスは15人以上のミュージシャンと共にレコーディングに挑んだのである。1972年の夏にニューヨークでレコーディングされたこのアルバムに参加したメンバーの多種多様なライナップが、この手の音楽の当時の人気を雄弁に物語っている。中心を担うのは、元モータウンのマイケル・ヘンダーソンが繰り出すベースの幻想的な響き。その周りを、あまり他のマイルスの曲では聴くことのできない音の層が包み込む:暴力的なまでのホワイトノイズ(トランペットにはワウワウを装着)、エキゾチックな音色のパーカッション、途切れることのないファンクのドラムサウンド(ドラマーのビリー・ハートジャック・ディジョネットが、ところどころでジェームス・ブラウンの「Cold Sweat」を引用している)。作曲のルールを内側からぶち破り、ハーモニーやメロディは二の次とばかりに隅に追いやられている。「One And One」でヘンダーソンがベースをMuTronのペダルに繋ぎ生み出した、かの有名なワウフィルターエフェクトひとつを例にとってもわかるように、このアルバムはいわば、光り輝くようなサウンドの純然たる宝庫なのだ。マイルスがその後自叙伝で明かしているように、当時はジェームス・ブラウンや、(当時の妻でありファンクアーティストのベティー・デイヴィスが紹介したという)スライ・ストーンからの影響はもちろん、オーネット・コールマン、そして作曲家のカールハインツ・シュトックハウゼンから同じくらい強い影響を受けていたという。とりわけ、シュトックハウゼンからは、音楽制作の手法における足し算や引き算を学んだという。これはアーティストとしてのデイヴィスにとって、マイクの前だけでなくコンソール前でのあり方について、大きなインパクトを与えることとなった。商業的には致命的な駄作となってしまった本アルバムだが、その何度も繰り返される幻惑的なモチーフも、1972年10月の発売当時はほとんど見向きもされずに終わった。例によって、マイルスは時代のずっと先を行っていたのだ。


Tutu (Warner – 1986)

マイルス・デイヴィスの音楽人生における晩年は、必ずしも実り多くアーティストとして突出していたとはいえないが、その名声はピークに達していた。この頃にはすでに、マイルスは自身の実力を世間に誇示する必要さえなくなっていた。もはや神格化されたトランペッターは、世界のどこへ行っても会場を超満員にし、無敵の存在と化していた。1981年の『The Man With the Horn』で復帰を果たしてから、1991年9月28日に65歳で亡くなるまで、マイルスの刺激的なレコーディングはいつも時代を反映することを目指し、その時々の若きミュージシャンを世に知らしめる場となっていった。目を惹くようなアルバムジャケット(フォトグラファーのアーヴィング・ペン氏による白黒のポートレート写真)を擁したファンキーな本作『Tutu』は、マイルスの最期の10年間を代表する作品の一つとなっている。1986年に、マイルスは人生のほとんどを共に過ごしたコロムビアを退所し、ワーナーに移籍した。これは、ジャズ/ファンクのフュージョンという、さらなる新しい音楽へ向けた冒険でもあった。その結果生まれたのが、『Tutu』である。このアルバムの特徴は、デイヴィスがマーカス・ミラーという新たなミュージシャンとのコラボを試みた点にある。エレキベーシストであるミラーは、ジャコ・パストリアスラリー・グラハムといった先人たちの後継者と呼ぶに相応しく、モダンミュージックの背景を描きあげ、再びマイルスをステージの中央へと引っ張り出した。本作は、80年代ど真ん中サウンドであるシンセサイザーが、華々しいカムバックを遂げた作品ともなった。「僕がマイルスに初めて会ったのは、1981年のことだった」と、出会いから20年経ってからミラーは語った。「彼のグループで2年間を共に過ごし、それは本当に神に与えられたような、幸せな時間だった。僕の目標は、作曲、演奏、プロデュースの全てを一手に引き受けることだった。1986年に、マイルスはプリンスとのセッションを行なったけれど、それだけでは新しいレーベルを満足させることはできなかった。だから、僕はマイルスを思い、作曲をした。彼は僕のデモを聴いて、即座にOKと言ってくれた。スタジオでは、僕は彼に圧倒されすぎてディレクションをすることができなかった。でも、彼に”俺にどう弾いてほしいのかはっきり言え”と怒鳴られたよ。だから、僕はその通りにしたんだ」。この2人に加え、『Tutu』では、ジョージ・デュークオマー・ハキムバーナード・ライトマイケル・ウルバニアクジェイソン・マイルズパウリーニョ・ダ・コスタアダム・ホルツマンスティーブ・リードビリー・ハートといった、ベテランミュージシャンやマイルスのためならいつだって喜んで駆けつけてくれる長年の付き合いのあるセッションミュージシャンらが多数集結した。『Tutu』は、シンセサイザーが幅を効かせ、大きなダボダボのスーツに身を包んだ男たちが闊歩した80年代半ばにはピッタリのサウンドトラックとなった。極端に形式化された、まるでマイアミ・バイスのような時代の中において、マイルスは変わらず軽やかに且つ詩的に、タイムレスなフレーズを繰り出すのだった。