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マンフレート・アイヒャーのECM:その静寂な世界

ECMは、いまだに本物の編集方針を追求している数少ないレーベルのひとつである。このミュンヘンの音楽出版社の創設者であり、ボスでもある、めったにインタビューを受けないことでも有名なマンフレート・アイヒャーは、このレーベルの音楽哲学とその実践の中核を担っている。このインタビューでは、彼が自身のキャリアと日常生活について語り、レーベルの核心と精神についての貴重な洞察を披露した。

マンフレート・アイヒャーは、決して時代遅れの手法に捕らわれた見当違いの時代錯誤者ではなく、まさに時代を生きる男だ。彼にとっての音楽は、彼の愛するマイルス・デイヴィスの『Kind Of Blue』で終わったわけではない。簡単に言えば、ECMの創設者であり頭脳でもある彼には、独自の価値観があり、それを大げさに喧伝するわけでもなく、ただ忠実に守り続けている。この献身的な姿勢のために、“時代遅れ“や”現代のトレンドに適応できない”という批判を受ける可能性もあるだろう。しかし、彼のレーベルが始まってから40年以上が経過しても、(1枚目はピアニストのマル・ウォルドロンのアルバム『Free at Last』)、彼は時代に遅れず、むしろ時代と並行する時間の中を生きている。「なぜこのように(偽りの)目新しさを全力で追い求めるのか? なぜ常に急ぐ必要があるのか? なぜ、空港、店、エレベーター、待合室、レストランなど、どこにでもいつでも音楽を流し、音楽を背景音に仕立てて軽視するのか? なぜ携帯電話を持たなければならないのか?」。アイヒャーは、この注意を散漫にする経済の命令をその手で払いのけ、自らの静寂な世界を大切にしている。穏やかで静かな世界である。しかし、その世界は彼ひとりだけのものではない。ECMファンがこの慎重な生き方に対して愛情を感じている…音楽を通じて。異なる理解の音楽。異なる発想。異なる価値観。異なる生き方。ここでは、まさに自由に生きる男、マンフレッド・アイヒャーのインタビューをお届けする。それはECMの最初のアルバム『Free at Last』(ついに自由だ!)のタイトルそのものだ。

ECMを始める前は、音楽をプロデュースすることの意味について、どのように考えていましたか?

当初、私はプロデューサーの世界について、特に何も考えていませんでした。ただ、マイルス・デイヴィスの素晴らしい『Kind Of Blue』をプロデュースしたテオ・マセロのような何人かの人に憧れていただけです。フィル・ラモーンや、クラシック界の数名のプロデューサーの仕事も高く評価していましたが、自分自身を彼らの一員だとは思っていませんでした。

それはきっと、あなたが根っからの音楽家であることと関係しているのでしょう。ヴァイオリニストであり、そしてコントラバス奏者でもあり...。

その通りです。今でもそうです。今でも、私はまず何よりも自分が音楽家であると考えています。6歳のときにヴァイオリンを始め、14歳のときにマイルスと一緒に演奏するポール・チェンバースを聴いて、コントラバスに転向しました。ベルリンなどのクラシックの団体でも演奏しましたが、同時にジャズ・ミュージシャンとも共演していました。そして、譜面に書かれた音楽の世界から、即興音楽の世界へと惹かれていきました。ただ単に出会いや経験を積み重ねるだけでなく、自分の情熱に従って生きることが大切だったのです。私は室内楽が大好きで、主に両親が聴いていたもの、シューベルトとか…の影響がありましたが、ロックやジャズ、マイルスやビル・エヴァンスのトリオも好きでした。

ECMは、どのように始まったのですか?

正直なところ、最初はすべてとても無邪気なものでした。私はクラシックの訓練を受けたただの音楽家で、クラシックとジャズを聴いていました。その後、コントラバスを弾くのをやめてプロデューサーになって、音楽にもっと近づきたいと思ったのです。一つの楽器に自分を限定したくなかったし、ソリストとして世界中を旅することも望んでいませんでした。プロデューサーになることで、音楽に間近で触れ、それを彫刻のように作り上げることができると思ったのです。音楽の彫刻家になろうと思ったのです。しかし、それはすぐに実現したわけではありません。私がミュージシャンとして、オーケストラの一員となって録音していた時、録音したものを聴き返すためにコンソールの裏に行く行為をどうしてもやめられませんでした。聴いたものを気に入ったことはありません。

自分がプロデューサーになって、ジャズを録音する際に、室内楽の録音における、アイデア、哲学、集中力、ダイナミクスを取り入れたいと思いました。それらは、その当時、ジャズの録音に欠けていたのです。

ECMの最初のアルバム、マル・ウォルドロンのレコードを手にした日のことを覚えていますか?自分の子どものような愛着を感じましたか?

Free at Last』のことですよね。それは、私が音楽で表現したいと思っていたことを具現化した、まさに最初の作品でした。残念ながら、あなたが想像しているようなロマンチックなものではありませんでしたが(笑)。しかし、完成した作品を手にして、ジャケットを見たとき、それが自分がやりたかったことを象徴していたのは確かでした。

あなたのアプローチは、当時も今も、音楽レーベルのディレクターというよりはむしろ文芸出版社のようですね。美学的な一貫性、ミュージシャンとの長期的なコラボレーションなど…。

私は以前から本や映画の熱烈な愛好者でした。ドイツのSurhkampやフランスのGallimardのような出版社の仕事を愛していました。ECMが誕生した時代には、まだミュージシャンとレーベルの間にこのような長期的な関係は存在しませんでした。それは、長期にわたるお互いへの信頼関係があってこそ成り立つ表現です。音楽業界がこの種の緊密なコラボレーションを妨げていたのです。今日では、マーケティングタイプの社員で溢れたレコードレーベルが増え、アーティストとしての背景を持つ人はいなくなっているため、状況はさらに悪化しています。今、音楽について本当に会話ができるレコードレーベルの責任者がどれほどいるでしょうか?

あなたの人生が、マイルス・デイヴィスの『Kind Of Blueを聴く前と後で変わったのだという人もいますが、いかがでしょうか?

例えば、「ブルー・イン・グリーン」を聴いたとき、私はその音楽的アプローチに魅了されました。同時に、それは私にとって非常に強烈な音楽的体験であり、記憶に鮮明に刻まれていたのです。それはまさに当時の私が求めていたものでした。私が考える室内楽の完璧な例でした…。『Kind Of Blue』の音楽的アプローチはその時代をはるかに先取りしていました。音は完璧。そして、もちろん音楽も完璧でした。

あなたは、ECMで多くのミュージシャンと築いてきた関係――編集者と著者のような――、それも非常に長期的な関係を強調されていますが…。

私がECMを始めた時、必ずしも長期的な関係を築くことが目標ではありませんでした。明らかに強い親和性を感じる場合もありましたが、何よりも楽しむことが目標でした。私が一緒に仕事をする人々について言えば、ミュージシャンであれ、エンジニアであれ、グラフィック・アーティストであれ、私は常に長期的な関係を築ける人々を選ぶ幸運に恵まれてきました。私は彼らと仕事を続けることができ、彼らもまた私と仕事を続けることができています。その継続性は私にとって非常に重要です。なぜなら、時間だけが、録音の際に、その人の微妙なニュアンス、資質、潜在能力を発見することを可能にするからです。それは、二人三脚で伝記を書いているようなものです。例えばキース・ジャレット。彼と一緒にどれだけ多くのレコードを作ったかさえ正確には覚えていませんが、コレクションを振り返ると、それは素晴らしい功績が残っています。すべては継続性なのです。そこから新しいものを創造し、発展させることができるのです。しかし、そこには素材が必要です。それが最近、私を落胆させている点です。人々は常に流行ばかり追いかけます。今日はこれ、明日はあれ…。もはや継続性がありません。そして、あまり中身もない…。私には、ある種の美学と、ミュージシャンが提案する素材とを調和させる必要があります。私は音楽を信じているからレコードを作ります。その音楽が成功を収めれば、それに越したことはありません。

あなたのレーベルが始まった1960~70年代は政治と文化が明確に、そして強く結びついていました。政治化されたフリージャズ、西側の反体制運動など、そうしたものがあなたの芸術にも影響を与えましたか?

当時、特にドイツでは“ドイツ赤軍”など、多くのことが起こっていたのは事実です。確かに、かなり刺激的な時代だったことは認めざるを得ません。しかし、そうしたことがすべて私の音楽に対する美的なビジョンに影響を与えたとは思っていません。ピーター・ブロッツマンやピーター・コヴァルト、さらにはエヴァン・パーカーのような人々と非常に親しかったですが、フリーシーンにあまり関わりたくはありませんでした。というのも、フリージャズは本来ライブで演奏されるべきだと思ったからです。その会場での激しさ、力強さは、スタジオではとても捉えられない。なにより、当時使用されていたアナログ録音技術は、ダイナミクスにかなり制限がありました。アナログ時代を懐かしむことはできますが、今日でははるかに多くの可能性が開かれています。確かに、当時は政治的意識が強かったですが、それが私の音楽的ビジョンを邪魔することは望んでいませんでした。私のビジョンは、室内楽に近いものでした。私は常にプレスト(編注:クラシック音楽で使われる「急速に」という意味の速度記号)よりもアダージョ(編注:同、「ゆるやかに」という意味の速度記号)を好んできましたし、常にメランコリーに対するある種の愛着を持っていました。

ジャズに焦点を当てていたあなたのレーベルは、最終的にはアジアやアフリカ、他の大陸の音にも門戸を開きました。どうしてそうなったのでしょうか?

非常に自然なことでした。私が音楽の学生だった頃、東欧やアジア、アルバニア、中国、アフリカなどをたくさん旅をしました。そして、ナグラのレコーダーを使ってあらゆる音を録音しました。羊飼いが笛を吹くようなシンプルな音だったかもしれません。ですから、ECMがこれらの音に門戸を開くことは、私にとって全く自然なことだったのです。

ECMは1984年にECM New Seriesの創設することによって進化を続けました。なぜ2つ目のレーベルが必要だったのでしょうか?

ジャンル分けとかラベル付けを必要としていたわけではありません。私はただ、即興音楽の録音と、譜面に書かれた音楽の録音を区別したかっただけです。アルヴォ・ペルトの『Tabula Rasa』がECM New Seriesの最初のアルバムでしたが、それ以前にもスティーブ・ライヒの 『Music For 18 Musicians』やメレディス・モンクによる一部譜面に書かれた音楽作品もリリースしていました。しかし、ペルトの作品は全く異なるものでした。音楽に対するアプローチが全く違ったのです。

その新たな芸術的アプローチによって、あなたの仕事の仕方も変わりましたか?

楽譜に戻る必要がありました。まるで私が音楽を始めたころのように、再び楽譜を読むことに戻るのは興味深いものでした。そして何より、ジェルジュ・クルタークやアルヴォ・ペルト、ヴァレンティン・シルヴェストロフ、ハインツ・ホリガー、ギヤ・カンチェリといった偉大な作曲家に囲まれ、彼らの音楽を実現させるために働くことができたのは、素晴らしいことでした。楽譜に忠実であること、そして情熱に駆り立てられた作曲家のアイデアに忠実であること。それらを、ダイナミクスやイントネーション、フレージングに落とし込もうと努めました。そして、この規律は、ジャズ・ミュージシャンによる即興音楽に戻ったときにも役立ちました。特に雰囲気という点においてです。

アルヴォ・ペルトとの出会いは、Kind Of Blueとの出会いと同じくらい重要だったのではないですか?

はい、本当に衝撃的でした。ラジオから、この音楽を初めて聴きました。夜中、チューリッヒからシュトゥットガルトへ向かう高速道路を運転していたときのことです。私は車を止めて、その音楽を聴きながら周りを見渡しました。後で分かったのですが、それは1977年にタリンで行われた、ギドン・クレーメルタチアナ・グリデンコによる『Tabula Rasa』のライブ録音でした。本当に衝撃的でした。

あなたはいわゆる「ECMサウンド」についての言及に、少し苛立っているように見受けられますが…。

苛立っているわけではありません。ただ、注意深いリスナーならすぐに気づくと思いますが、我々のレーベルのパレットは非常に広いのです! いわゆる「ECMサウンド」や一部のリスナーが抱くイメージは、おそらくごく一部の作品にしか当てはまりません。一方で、「ECMコンセプト」や「ECMアイデア」について話されるのは気にしませんよ。確かに、私は速いテンポの音楽よりも、叙情的で詩的な音楽を好みますし、オーケストラよりも室内楽が好きです。しかし、この「ECMサウンド」というのは、率直に言ってクリシェ(編注:型にはまった決まり文句や表現のこと)です。我々はただ、音楽に最も適したサウンドを作り出そうとしているだけです。サウンドを音楽やミュージシャンの形に合わせて彫刻しているのです。それはチームワークであり、どの作品も唯一無二のものです。ECMは確かに、明瞭で、透徹した、透明感のある音を好む傾向があるかもしれません。多くの人々は、我々が常にリバーブを使っていると言いますが、それは多くの場合、すでに残響を持っている録音場所に関連していることが多いのです。そして、それらの場所がミュージシャンにインスピレーションを与え、ある一定の演奏スタイルを促すのです。また、選ばれた楽器編成も最終的な結果に影響を与えます。そして、もし私がLexicon 480のリバーブを使うなら、それはスタジオの機材としてではなく、あたかも楽器として使っているに過ぎません。