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クイーン:調和と衝突、バランスの狭間

2018年10月に劇場公開された映画『ボヘミアン・ラプソディ』を観ると、フレディ・マーキュリーが口癖のように繰り返した言葉を思い出す。「Queenとは、バンドグループとしての名称ではなく、4人の類まれなる才能を持った人間が集まった集合体の名称である。」世界が煌めくようなボーカルを失った1991年11月21日以降、遺されたバンドメンバーのブライアン・メイとロジャー・テイラー(ジョン・ディーコンは脱退したため今はいない)は、このことを繰り返し語り続けている。

70年代初頭、ファルーク・バルサラはすでにイーリング・アートカレッジの教室内ではフレディという名前で知られるようになっていた。大ファンだったバンド “Smile”の活動に参加し始めた頃に、マーキュリー姓を名乗りはじめ、ドラマーのジョン・ディーコンが加入する頃は、メインメンバーのブライアン・メイ(Vo. & Gt.)とロジャー・テイラー(Vo. & Dr.)を説得して、バンド名を “クイーン”に変更する。4人の青年たちはロックへの熱い想いを共有し、すぐにパブなどの小さなハコでのライブでは物足りなさを感じるようになっていった。メイは「The WhoJimi Hendrixを見た時、そのド派手さに衝撃を受けたよ。彼らからは危険な香りがしていて、音楽は爆音だしライブはギラギラしていたし・・・次に何が起こるのか予想もつかなかった。俺たちがガキの頃に感じたそのワクワクした気持ちを、今度は俺たちが人に与えたいと思った。演奏を始める前から、俺たちの目標はそこにあったんだ。俺たちは、危ないことへの嗅覚は優れていた。だから、俺たちはライブで巨大なセットや照明をガンガンに入れて、ド派手にぶちかましたんだ。俺たちがライブで爆音を出すのは全部、そういった意味があるんだ」と語っている。

ロジャー・テイラーだけが、クイーンというグループがメンバー個々の才能を超越した存在であったことを、私たちに思い出させるわけではないだろう。フレディ・マーキュリーを含むメンバー全員がそれぞれソロ活動に挑戦した時期があったが、誰一人としてバンド以上に成功した者はいなかった。「俺たちは、グループとして本物だった。そう言い切れるグループは、実はこの世界にはそう多くはない。大抵の場合、リーダーがいて、そいつが何もかもをこなして残りのメンバーは影の存在だ。フレディがよく言っていたよ、『このバンドのメンバーは俺だけじゃないんだ』って。彼は偉大なボーカルであり、作曲家であったけれども、俺たちのバンドは全員が平等で、みんながそれぞれ大きく貢献していた。それが、クイーンの成功の秘訣の一つだよ。俺たちは強い絆で結ばれていて、全員が必要不可欠な存在だった。全員が作曲をして、全員が複数の楽器を弾けた。曲の途中で、お互いがそれぞれのキーボードやギターのパートを代わりに弾くことだってあった。」

ブライアン・メイによると、クイーンのリスクを恐れないやり方は、最初はなかなか周囲に受け入れてもらえず、最後のチャンスを覚悟して挑んだアルバムでようやく成功を掴んだのだという。「これまでにレコーディングしたアルバム全てに思い入れがあるけれど、中でも『A Night At The Opera』(邦題:オペラ座の夜)は俺にとって特別な存在なんだ。バンドが飛躍的に成功するきっかけになったアルバムだからね。俺たちは、自己表現をしながら成功を掴む手段をやっと手に入れた。アルバムをレコーディングし始めた頃は全く金がなかったのに、段々と周りが時間も大金も惜しまずに出してくれるようになった。それまでに作った莫大な借金に関しても、新しいマネージャーのジョン・リードとの契約書にサインをした時に、夢のような言葉をかけてもらったんだよ。『お前らの金の問題については、全部俺が面倒を見てやる。その代わり、これまで以上の最高のアルバムを作ってくれ。世界がひっくり返るようなアルバムをだ』ってね。それから先の俺たちは、自由だった。このアルバムを絵に例えるならば、それまで欲しかった色の全てを使って描いた一枚の絵画のようなものだったよ。」

テイストとケバケバしさ

次に発表したアルバム『A Day At The Races(邦題:華麗なるレース)は、登場するなり英国で1位を獲得、米国でも上位にランクインした。そこからさらに世界中の国で100万枚以上が販売された(そして今日に至るまでに、さらに600万枚以上を売り上げている)。このレコードでクイーンの活動範囲は飛躍的に広がったが、シンセサイザーなどの電子音楽を取り入れることを頑なに拒み、アルバムカバーの内側にはギターの写真を掲載するなど、あくまでもバンドのルーツであるロックを貫き通した。メイは「あのアルバムには、俺たちの曲の中でも、最も複雑な楽曲が多く収録されている。といっても、複雑さというものが音楽に必要か否かというのは、永遠に答えの出ない議論だろうけどね」と語っている。「その頃の俺たちに限界というものはなかった。「The Millionaire Waltz」で挑戦したバロック・スタイルなんかを見てもらってもわかるようにね。今になってあの曲を聴き返してみると、どうやってあんな曲をレコーディングしたんだろうと不思議に思うことがある。でも、『A Night At The Opera』と同様に、『A Day At The Racesを聴くとやっぱり誇らしさや、グッと胸に込み上げてくるものがあるんだよ」

80年代以降、クイーンは何かと批判の的になることが増えたが、彼らの世界規模の人気が衰えることはなかった。大規模なライブコンサートはもはや伝説となり、それまでどんなロックバンドも演奏をした事のない場所でのライブなども行った。また、派手な演出を好んだのはフレディ・マーキュリーだけではなかった。「俺たちはスタジアムでのライブが一番心地よいと感じていた。あの規模でのコンサートでは、俺たちが最強だったんじゃないかな」と語ったのはテイラーだ。「俺たちはステージ上での自分たちの見せ方を知っていたし、フレディは客席にいる何千という人に対し、まるで一人一人と直接対話しているかのように振る舞うのが抜群にうまかった。」

彼らは、ファンに対するある種の謙虚な姿勢を崩さなかった。「俺たちは、かなり早い段階から自分たちの役割は人々にエンターテイメントを提供する事だと気づいていた。日常を生きている中では得られないような、何かに熱狂し感情を揺さぶるような一瞬を届けること。そのためには、俺たち自身が力を出し切らなければならない。俺たちに信念がなければ誰の共感も得られない、そうだろう?」と、メイはある時語った。「ハリボテじゃだめだ。自分の心の奥底にある欲求をさらけ出さなきゃいけない。観客には見抜かれるからね。表面を取り繕っただけじゃ、ダメなんだよ。」

グループの再生

予想に反して、フレディ・マーキュリーの死後もブライアン・メイとロジャー・テイラーはバンドを存続させた。生前にレコーディングしていた、フレディの未発表の音源を使って、『Made In Heaven』をリリースしたのだ。1995年の発売当時には、アルバム制作にまつわる裏話を明らかにしなかったことについて、ブライアン・メイはその後次のように弁明している。「一枚だけアルバムを選べと言われたら、やっぱり色々なことがあったけれど『Made In Heaven』と答えるだろうね。あのアルバムにはたくさんの愛が詰まっている。フレディの素晴らしい声を録音した音源のデモしか残っていなかったけれど、些細なディテールにまで注意を払って、その時やれる限りのベストなものができるように努力した。これが彼へ向けた、最後のトリビュートとなるんだからね。俺の目には、他のアルバムと比べても遜色がないほど完璧にクイーンのアルバムに仕上がっているように思えた。何よりも、まるでバンドの全員がスタジオに集まって、心から楽しんで演奏しているように聴こえるところが俺は気に入っている。実際はそうじゃなかったとしてもね。下手したら、どこかの倉庫の箱の底に仕舞い込まれて、誰の耳にも届かないままだったかもしれない素材をかき集めて作り上げた作品だ。アルバムを聴いていると、穏やかさと懐かしさが呼び起こされるような、そんな気持ちになる。曲はハードロックではないけどね。でも、音楽のスタイルがどうとか関係なく、一曲一曲の密度が濃くて、深みがある。俺たちを含め、彼を愛した全ての人にとって、フレディの唯一無二の歌声を聴く最後のチャンスとなった一枚だ。」

エルトン・ジョンがある時、メイとテイラーにクイーンを別の名前で復活させてはどうかと持ちかけたという。「今の状態は、まるでガレージにフェラーリを置いたままドライバーを待っているようなものじゃないか」と。最初は乗り気ではなかった2人だったが、バンドとして大きく影響を受けたFreeのボーカルを務めた人物と連絡を取り付けた。ポール・ロジャースレベルのプロフェッショナルの力がなければ、2人が再び自信を取り戻し、ド派手な演出のコンサートを行うことはなかっただろう。「俺は、スタジアムを満員にできるほどのあのグループの一員であったことに、さほど執着はなかったんだと思う」とメイは語った。「フレディがいなくなって、とてつもなく寂しかったけれど、クイーンの活動を継続できなくなったことを残念に思ったことは、実はほとんどなかったんだ。自分の人生に満足もしていた。だけど、だんだんいろいろな人から声をかけられて、そのうちに、少年の時みたいな気持ちを徐々に取り戻していった。また、バンドが組めるんじゃないかって気持ちになっていったんだ。ポール・ロジャースと出会った時に、何かがストンと腑に落ちる感覚があって、昔感じたようなワクワクした気持ちが湧き上がってきたんだ。すると、ウクライナで初めて20万人の観客の前で演奏することになって・・・またステージに戻って、夢のような場所でたくさんの人に受け入れてもらえたのは本当に幸運だったと思う。あとこれは言っておきたいんだけど、俺たちは金が欲しかったわけじゃない。それに関しては、必要な分の蓄えはもう十分にある。加えて言うと、俺たちはこれまでの収益の大部分を、マーキュリー・フェニックス・トラストやネルソン・マンデラ財団に寄付してきたよ。」

ポール・ロジャースも、その後2011年に参加したアダム・ランバートのどちらも、フレディ・マーキュリーを越えようとはしなかったが、ブライアン・メイとロジャー・テイラーはその後も度々メディアに対してバンドに対する想いをを守り続けるような発言をしている。「他のことを考えることさえできないほど打ちのめされた辛い時期はもう乗り越えた」とメイは話す。「愛する人を失ってしばらく時が経つと、もう会えないことへの痛みはやがて和らいでいく。代わりに、唯一無二の人生を生きたその人と出会えたことへの感謝と、その人と何年も一緒に人生を歩み、あらゆることを分かち合えた事の喜びの気持ちが芽生えてくるんだ。今となっては、フレディへの想いは全てがポジティブで、彼を思うと勇気が湧いてくる。フレディはまだ、俺たちの側にいる・・・そう感じるんだ。少なくとも、そう遠くへは行っていないんじゃないかな。俺たちは本当に仲が良くて、何年間も一緒に濃密な時間を過ごしてきた。俺たちが何かを決断しようとする時、ふと頭の隅に彼の顔が浮かんで、自分ならこうする、と意見をしてくる。彼の存在を俺は感じる。彼がいなくなってからも、フレディだったら嫌がるだろうと思うことは、やらないようにしてきたよ。」

Interviews by Jean-Pierre Sabouret.