マイルス・デイヴィスの『カインド・オブ・ブルー』、ジョン・コルトレーンの『至上の愛』、そしてキース・ジャレットの『ケルン・コンサート』。これらはジャズ・アルバムの「三位一体」のようなものである。しかしながら……『ケルン・コンサート』は本当にジャズ・アルバムなのだろうか? ドイツのECMレーベルから1975年11月30日にリリースされた、この2枚組アルバムが、どのようにして400万枚以上も売り上げられたのか。その再生時間は1時間6分。この売り上げ枚数は、即興のジャズ・アルバムとしては驚くべきであり、特にジャズが好きというわけでもない音楽愛好家たちをもとりこにしたことを考えれば、なおさらだ。
1975年初頭、29歳のアメリカ人ピアニスト、キース・ジャレットはすでに見事なキャリアを積んでいた。ペンシルベニア州アレンタウン出身の彼は、アート・ブレイキーやチャールス・ロイド、マイルス・デイヴィスと共演し、すでに約20枚のアルバムを録音していた。ジャズというジャンルは大きな変革期を迎えており、エレクトリック・サウンドの支持者がフュージョンへと導こうとする一方、リベラルな活動家たちはむしろフリーで純粋な形のジャズを志向していた。その中で、キースは、エレクトリックでもアコースティックでも、ソロでもサイドマンと一緒でも、どのような場面でも同じように巧みな演奏を披露し、どれにも収まりきらない存在であった。1971年から1976年の間、彼はベーシストのチャーリー・ヘイデン、ドラマーのポール・モチアン、サックス奏者のデューイ・レッドマンとともに、ハード・バップ、フリー・ジャズ、ワールドミュージック、アバンギャルドが衝突するマッド・サイエンティストの実験室のような「アメリカン・カルテット」を率いていた。そして、ほぼ同時期に、サックス奏者のヤン・ガルバレク、ベーシストのパレ・ダニエルソン、ドラマーのヨン・クリステンセンとともに、「ヨーロピアン・カルテット」と名付けられた別のアンサンブルも率いていた。
キース・ジャレットは、この時期も、また彼のキャリア全体を通じても、ピアノ・ソロに立ち返り続けている。それは彼にとって必要不可欠なものであり、彼をECMに迎え入れたドイツ人プロデューサー、マンフレート・アイヒャーとの出会いによって生まれた必然だ。ECMによって、1971年11月10日にノルウェーのオスロにあるアルネ・ベンディクセン・スタジオで、ピアノ・シーンを揺るがせる伝説的なソロ・アルバム『フェイシング・ユー』が録音された。1974年の『ダウンビート』誌のインタビューで、キース・ジャレットはこの出会いの重要性について語っている。「もし(マンフレートに)出会わなかったら、ソロ・アルバムも、『フェイシング・ユー』も、ましてやあの3枚組レコード・アルバム(『ソロ・コンサート』)の成功もなかっただろう。そして、私の机には、リハーサルされることもなく、ましてや演奏されることも録音されることもなかった楽譜が山のように積み上げられていただろう。その機会がこれほど早く、しかもタイミングよく訪れたことに対して恩返しする方法は、ECMのためにもっと音楽を生み出すこと以外にない」。
『フェイシング・ユー』の後、キースは2つのカルテットで演奏を続けながら、1973年3月と7月にローザンヌとブレーメンで印象的なソロ・コンサートを録音した。このプロセスは、彼と音楽との関係、とりわけ即興演奏との関係に不可欠なものとなった。1975年1月24日のケルン・オペラでのコンサートは、こうした重要な瞬間、出会い、録音、経験の積み重ねの結果として生まれたのである。そして、歴史が、このソロ・コンサートを伝説のものにしたため、そこでのエピソードは半世紀にわたって語り継がれている。例えば、この晩の主催者であるプロデューサーのヴェラ・バランデス(Vera Brandes)がわずか18歳だったことや、ここで行われていたオペラの公演が遅れたために午後11時30分まで演奏が始められなかったことが挙げられる。また、この歌劇場がジャズ・コンサートを開催するのは初めてのことだったという点も興味深い。
Wolfgang Frankensteinによって撮影された有名な白黒のカバー写真は、実際には別のコンサートのものである。また、この『ケルン・コンサート』に関する最も有名な逸話は、ピアノについてであろう。キースは大きなベーゼンドルファーを要求していたが、なぜかそれが届かず、はるかに小型で品質も平凡なピアノが用意され、しかもサスティーン・ペダルに不具合があったのである。その上、マンフレート・アイヒャーとのチューリッヒからの長時間の車の旅で疲れ果て、激しい腰痛に見舞われていたキースは、ピアノの問題を知ると、完売していたコンサートを即座にキャンセルしたがった。しかし、観客1,400人以上が期待している中で、開演数時間前に若いヴェラ・バランデスが彼を説得することに成功し、キースは舞台に上がることを決めた。2008年の『ウォール・ストリート・ジャーナル』のインタビューで、ECMの創設者はこの悪名高いピアノ事件について振り返り、「おそらく、彼は良いピアノじゃなかったから、あんな演奏をしたのだろう。つまり、あのピアノにほれ込むことができなかったから、最大限に活用するための別の方法を見つけたのだ」と述べている。
『ケルン・コンサート』におけるキース・ジャレットは、そのアプローチ、音色、そしてテーマの展開方法において唯一無二の存在である。第1部は26分、続く第2部は14分、18分、7分の3つのセクションに分かれている。特に最初の30分間は最もよく知られている部分である。ちなみに、アメリカ人ピアニストが演奏を始めた最初の5音は、実際に歌劇場がコンサートの開始を告げるために使っていた音であった。そこから続く信じがたいほどメロディアスな音の奔流が、流麗な右手によって奏でられ、聴衆を一瞬にして引き込む。透き通るような清澄な音の中には、乱れのかけらもない。ただキースの指が、ジャズ、フォーク、ゴスペル、クラシックの間をスラロームするように、美しいメロディーの骨組みを愛おしむように奏でていく。従来のジャズの枠からは遠く離れ、彼は構成されたコード進行ではなく、反復的なモチーフを用いて自らを表現し、思いがけない瞬間にポップスの要素をも彷彿とさせるのである。
このピアノの傑作は、あらゆる音楽愛好家の琴線に触れる力を持ち、さらにシネマティックなエネルギーをも放っている。1992年の『シュピーゲル』誌でのインタビューで、キースは自らのレコードをちゃかし、年を経るごとに映画のサウンドトラックのように聴こえるようになってきたと述べている。「私たちは音楽を忘れることも学ばなければならない。そうでなければ、過去に縛られてしまうから」とも語っている。1993年、イタリアの映画監督ナンニ・モレッティは、映画『親愛なる日記(Caro diario)』で、このケルン・コンサートの冒頭部分を使用し、見事な長編音楽シーンを作り上げた。そこでは、ベスパに乗ってオスティアに向かい、1975年11月にピエル・パオロ・パゾリーニが殺害されたビーチにたどり着く。これはキースの『ケルン・コンサート』がリリースされたのと同じ月であった。第2部は、第1部のメロディアスで瞑想的な雰囲気から離れ、より打楽器的で複雑なものとなる。左手には洗練された技巧が感じられ、手に負えない楽器と戦い、時にはからかいながら演奏している。荒々しく奔放なピアノ・リフの合間には、かつて“ピアノ・ジャズ”の限界に挑んだもう1人のピアニスト、ビル・エヴァンスをも彷彿とさせる。
カルト的な名作の全てに言えることだが、私たちはキース・ジャレットのケルン・コンサートを本当に分析することをしばしば忘れてしまう。あまりに多く再生され、引用され、もはや使い古されたクリシェになってしまっている。過剰なまでの人気が、この作品を神聖視させ、私たちはそれを知り尽くしていると錯覚してしまうのである。さらに、彼のディスコグラフィーが豊富であるため(1973年の『Solo - Concerts Bremen / Lausanne』や、1976年11月の日本ツアーで録音され2年後にリリースされた『Sun Bear Concerts』を好む人も多い)、彼の作品の中で最も重要なレコードというわけではない。それでもなお、この作品は、ジャズ史、さらには即興音楽の歴史における芸術的な転換点としての位置を保ち続けている。それは未踏の領域への一種の出発点であり(「しかし本当にジャズなのか?」という果てしなく無意味な問いにたどり着くことになるだろう)、キース・ジャレットの魔力によって、次々と新たな聴衆を驚嘆させ、息をのむほどに魅了し続けているのである。