1960年代末期、ジャズマンたちはファンク・ミュージックとそのスターたちのパワーに魅了されていた。オープンマインドを持って革新的な試み重ねてフリージャズに到達するミュージシャンがいた一方で、単純な和声で大衆を躍らせるだけの原始的な音楽に過ぎないと拒否反応を示す者も多かった。他にも、スライ・ストーンによる実験的な電気楽器の使い方に興味を持ち、その音楽に商業的可能性を見出すようになったジャズマンもいた。そしてジャズマンたちが特に注目したのが、あらゆる階層の怒れる若者たちが生み出すエネルギーと圧倒的な音圧、そしてサイケデリックなファンクネスだった。モデルで後に歌手となるベティ・デイヴィスと1968年に結婚したマイルスは、その妻を通して当時の最先端のファッションや音楽に触れ、ジミ・ヘンドリックスやスライ・ストーンのレコードや服装を知ることになった。この年若き妻の存在の大きさは、マイルスがアルバム『Filles de Kilimanjaro(邦題:キリマンジャロの娘)』のジャケットに写真家ヒロが撮影した彼女を使っている上に、このアルバムに妻に捧げた曲「Mademoiselle Mabry (Miss Mabry)」を収めていることからもうかがえる。
この頃、40代に入ったマイルスは、通常はロックバンドが出演するような大規模な会場で演奏するようになっていた。彼のファンは懐疑的になっていた。若手時代からマイルスを聴き続けていたファンは、単純なビートの中に迷いこんだと不満を募らせてマイルスから離れていった。しかし、マイルスがバカなことをはじめたと言いつつも、その音楽につき合い続けるファンも存在していた。そんな聴衆の中でも特に若い世代の中には、父親やおじさんが集めている古いレコードの中にマイルスの名前を見つける者もいた。その音楽はレコーディングのたびに変わっていった。アドリブをこれまでないほど長尺にし、リズムセクションには誰も聴いたことがないような演奏に挑ませ、音楽の中におけるエレキギターの存在感をとてつもなく大きくしながら、マイルスは探求と試行錯誤と挑戦を重ね、音に耳をすませ、構築し、破壊し、組み立ててはそれをまたバラすということをくり返していた。自身の自伝によると、マイルスはジェームス・ブラウンの音楽に関心を持ち、特にきわめてパワフルなリズムへの志向に興味をひかれていたと言う。そしてエレキギター、さらにはエレクトリック・ピアノへの関心を強めていった。
だが、マイルスは、絶えず変化し続ける自分の音楽にそのような一連の要素をただ取り入れるだけにとどまらない創造を繰り広げる。1969年リリースのアルバム『In A Silent Way』では、彼はリズミカルな音楽に心を奪われていた。そしてこの年の夏にすべてが大きく変わる。マイルスは12名のミュージシャンとスタジオにこもって革新的な作品を録音した。1970年4月にリリースされた2枚組アルバム『Bitches Brew』だ。そこではジャズやリズム・アンド・ブルース、ファンク、ロックンロールが一つに混ぜ合わされ、荒々しい響きを生み出していた。そこで行われていることを全く理解できないリスナーも多かった。しかし、マイルスがジミ・ヘンドリックスやファンク、ロック、ブルース、そしてジャズの歴史そのものまで溶かし込んだ、90分間を超えるその音楽に、魔法にかかったように夢中になる者も多かった。
彼はオープンさを持ち続ける一方で、若者だけを相手にした音楽をしようともせず、自分のエレクトリック・ミュージックの複雑さを理解するには若者は未熟だとも考えていた。アコースティック・ジャズ至上主義者の中には、マイルスは悪魔に魂を売ったとまで言う者もいた。レコードを売りたいだけだ、と非難する者もいた。しかしその見方は、このエクストリームな音楽がアメリカのラジオで放送される音楽の基準から大きく外れていて、気楽に聞き流せるような代物でないことを考えれば、あて外れな意見としか言いようがない。
『Bitches Brew』からライブ盤『Pangaea』にかけてのマイルス・デイヴィスの音楽が、ピュアなファンクでも、ピュアなロックでも、ましてやピュアなジャズでもないことは、誰が聴いても明らかだ。ジョン・マクラフリン、ピート・コージー、デイヴィッド・クリーマー、レジー・ルーカス、ドミニク・ゴーモン、コーネル・デュプリー、ソニー・シャーロック…といった歴代のエレキ・ギタリストたちからは音楽の初期衝動が感じられる。ベースとドラムスは絡み合って一体化し、時としてジミヘン的なアグレッシブさを醸し出す。そんな中でマイルスは、彼らに同じロードマップを二度示すようなことはしなかった。『In A Silent Way』や『On The Corner』でマクラフリンが自由な裁量を持っていたとしたら、レジー・ルーカスは1974年の『Get Up With It 』での彼の経験について同じことは言えなかっただろう。ふり返ってみると1972年のアルバム『On The Corner』が、ファンクの標準的なスタイルに最も寄りそった作品だと思える。そしてそれは、ジャケットを飾るコーキー・マッコイ(Corky McCoy)のファンキーさ漂うイラストのせいだけではないだろう…。この作品でマイルスは自身にとって初めてとなる、15名を超えるミュージシャンを伴ってスタジオに入っているのだ。強者たちを集めて生み出されたこの熱狂的な音楽は、1972年夏のニューヨークで録音された。モータウンで活躍したマイケル・ヘンダーソンが、幻惑的なベースでバックを支える。そしてマイルスはベースの周囲に層をなすように、これまでに聴いたことがないような耳をつんざくようなホワイト・ノイズ(トランペットの音をワウワウ・ペダルに通したもの)やエスニックなフレーバーたっぷりのパーカッション、どこまでも続きそうなファンク・ドラム(ビリー・ハートやジャック・ディジョネットが叩き出すジェームズ・ブラウンの「Cold Sweat」の引用)などを配置し、ハーモニーや曲調は後景に追いやられ、作曲のルールは完全に崩壊している。
『On The Corner』は今すぐにでも再評価されるべき宝のアルバムだ。マイケル・ヘンダーソンがベースをミュートロンのオートワウにつないで奏でる蠱惑的なワウワウ・サウンドのイントロが聴かれる「One And One」のように、貴重な宝の山なのだ。サイケデリックなインプロヴィゼーションとファンキーなリズムが織りなす、体を揺さぶるような天上的なグルーブは、ファンク・ミュージックだからこそ表現できるものだ。これこそ「ホンモノ」だ。リスナーが失神して倒れ込んだとしても不思議はない。でもそんな時でも、アルバムの中盤でヘンダーソンのベースが介抱してくれるから心配はいらない。マイルスは自伝の中で、ジェームズ・ブラウンやスライ・ストーンに加えて、オーネット・コールマンやとりわけ作曲家、カールハインツ・シュトックハウゼンの影響について言及している。シュトックハウゼンについては、音楽の創造における追加と加筆のプロセスについて間接的な影響を受けたと語っている。マイクの前でもミキサー卓の後ろでも生まれるのが、当時のマイルスの音楽における主要なルールの一つだった。『On The Corner』は商業的には失敗して批評家の評価も低く、長尺で反復が多いサウンドは、リリース当時はほとんど反響が得られなかった。いつものことだが、マイルスは少々先を行き過ぎていたのだ。
1970年代初頭から75年の引退まで、マイルス流ファンク・ミュージックのディスコグラフィーを飾るのがいくつものライブ盤(当初は日本のみのリリースだったものもある)で、どれもが一定以上の関心を集め、成功している。『At Fillmore : Live At The Fillmore East』『Live-Evil』『In Concert – Recorded Live At The Philharmonic Hall, New York』『Black Beauty : Miles Davis At Fillmore West』『Dark Magus : Live At Carnegie Hall』そして中でも必聴なのが、1975年2月1日に大阪で行われた昼夜2回のコンサートの記録である『Agharta』と『Pangaea』という2つの2枚組アルバムである。スタジオ作品は、膨大な時間にのぼるテープの度重なるミックスと編集を通して完成されている。マイルスの才能は、おそらくはまったく異なるこの二つのアプローチの合間に存在しているのだろう。これらの即興演奏の乱痴気騒ぎは決してマンネリ化することなく、しばしばトランスの領域に属し、一心同体と言える間柄のプロデューサーであるテオ・マセロとともにマイルスが積み重ねていった幾重にも折り重なったサウンドを貫くように突き進んでいく。これはジャズの歴史の一部であると同時にファンクの歴史の一部でもあるのだ。